モラルの変化には隔世の感が

僕の祖父は明治生まれです。その祖父にいろいろなことを教わりました。たくさん教わったのは、木工です。祖父は尺八を吹くだけではなく作っていました。今にして思えば、尺八の作り方を教わっておけばよかったとも思います。とは言え、とても器用な人であったので、道具の使い方を色々教わりました。今の自分の木工作業は、これが原点です。

 

ただ最近、祖父から教わったのはそれだけではないということに気が付きました。明治時代の名残りで、躾には厳しい人でした。

 

例えば、新聞の上を歩くと怒られました。なぜならそれは文字を踏んづけるからです。字は単に読むためのものではなく、その裏には多くの気持ちや魂が宿っていると言う考え方です。

 

また、布団の上をドカドカ走ると叱られました。布団は遊ぶためのものではない、寝るためのものだと言うことなのでしょう。

 

それから僕はある時、とても考えられないことを友達がしていることに気づきました。それはごみを捨てるときに、ゴミ箱に物を投げ入れていたのです。僕はものを投げると言う習慣がなかったのです。

 

これらの祖父から躾られた事は、一つ一つ失われていきました。しかし、そのたんびに、祖父から言われたことを思い出したのでした。

今の時代からするととても考えられないことです。とても窮屈な感覚だと思われます。しかしその頃の僕にはそういう思いはなかったと思います。なぜなら僕は祖父からいろいろな遊びを教わっていたからです。竹とんぼ、水鉄砲、けん玉、駒、それから手品など。遊びの世界は充分ありました。ですから祖父は大好きで、祖父からの躾はそれほど違和感がなかった気がいたします。

 

今は何でもありの社会です。確かに自由ですが、ふと気がつくと考え方の指針を失ってしまったのではないかと思うのです。物に対して、人に対して、文字や言葉に対して、僕たちは昔の日本のしつけをもう一度吟味することが必要なのではないでしょうか。