支配から共生へ

今人類は大きな変化の中にある。ふと思ったことを書いてみる。

人類は動物として誕生した。その時は、ただ、意思もなく、宇宙のひとこまとして存在した。意識も意思もなく存在した。神と一緒にいたということではないか。争いと言う概念もなく、ただ自然に。

しかし、大きな集団を作り生活を始めると、次第に本来の自然な状態ではうまくいかなくなってきた。暗黙に指示を出していた自然(神)の声が聞こえにくくなる。そこでその神の声を聞いたとする人間が、他の人間を支配するようになった。シャーマニズム、神聖政治である。

しかし、その神の声を聞く人間ですら、神の声を聞くことが難しくなると、神の声を文字として残し始めた。宗教の誕生である。そして、宗教を利用した支配が始まる。

この宗教による支配は、その裏で力による支配が支えていた。そして次第にその王や貴族のによる力の支配になっていく。

宗教と力による支配は、宗教の腐敗と力による特権により堕落していく。そしてこれは、命を賭けた民衆の怒りをかった。大衆こそ正しいと言う民主主義の始まりである。しかし、その民主主義も、多数と利権による支配になっていく。

これらの反省から、共産主義などの理想主義による支配が始まる。抑圧されたもの支配されたものが、理念によって多数を支配しようとしたのだ。しかし、この支配も、現実の社会をかけ離れ壊れていく。

民主主義の行き詰まりと、理想主義の破壊状態が今目の前にあるのではないか。声が大きい少数と黙った多数。

考えてみると、人類の社会は、これまでずっと誰かによって支配されるものであった。

しかし、これは、SNS等の情報拡散によって変わりつつある。多数でなくても、個人が発信できるのである。そしてこのことにより人類の学習が今進んでいる。

嫌がらせや炎上、そして分断。これを乗り越えるためには、単なる理想ではなく、動物としての本来の欲望や宿命を克服していかなければならない。仏教が言う煩悩や欲望の消滅や、心の分析や内観は、この時多くの示唆を与えてくれるのではないか。

物質と現世にこだわった力の支配から、心の世界による共生の世界へ人類は脱皮しようとしているのではないか。