後ろ姿に尋く

僕は爺さん子です。それは母方の祖父で、明治35年(1902年)生まれ、電電公社のエンジニアでした。電話線を電柱に取り付ける金具を使っていました。「こういう風にすると、電話線が切れずに長持ちするのだよ」と、僕が小学生の頃説明してくれたのをおぼえています。勿論その重要性など分かるはずもありません。祖父は、図面を描き試作をし、いつも考えていました。

 

母方でしたが祖父とは同居していましたので、駒とか竹とんぼとか水鉄砲とか教わりました。祖父は物作りの人であったのです。僕の、物作りの精神は、この祖父から引き継いだものなのです。小学生も高学年になると、何かを作っているところに僕を呼んで、切ったり、磨いたり、直角を出したり、作る上での工夫やコツや考え方を話してくれました。

 

中学生以上になると、祖父とべったり一緒にいることは無くなりましたが、その物作りの姿をいつも見ていたのです。その頃祖父は、尺八を作っては音を確かめ、レコードに合わせながら、生まれ故郷の民謡を吹いていました。尺八が何本も立て掛けられ、その吹き口を磨いたり、穴を変えたりしていたことを思い出します。

 

また明治の人ですから、昔ながらの感覚で、所作にはきびしいものがありました。布団の上で走ると叱られたり、新聞の上を歩くと字を踏んではいかんと言われました。物を投げたり、斜めに置くと、物を大事にするように諭されました。そういう精神的な教えは、普段はすっかり忘れていますが、時折ふと思い浮かびます。

 

僕が仕事でしばらくアメリカへ行くその朝、祖父は脳溢血で倒れました。僕はその朝、祖父の入院先に衣服などを届け、慌ただしく空港へ行ったのです。数ヶ月後帰国した時、祖父は寝たきりで口がきけなくなっていました。祖父は僕のことが心配だったのでしょう。きっと、もう話す機会がないかもしれないと切羽詰まったのかもしれません。

 

実は、祖父は大東亜戦争中、軍人として、通信網構築の為インドネシアに行っていました。そして欧米の植民政策に不信と怒りを覚えていたのでしょう。いつも、西洋に従ってはダメだと言っていました。しかし、孫が、そのアメリカに仕事をしに行くのです。時代の流れに逆らえないもどかしさを感じていたのかもしれません。

 

祖父は、その後、話しを交わすこともなく、亡くなりました。後で聞くと、あの剛な祖父が、時折目に涙を浮かべる事があったといいます。

 

今、僕は、自宅の一室を工房として使っています。あの頃の祖父の姿になぞらえて、ああ、僕も同じ事をしているなあと思っています。物を作るという、日本人の根深いDNAを受け継いだのかもしれません。あの徹底した手作業には及びませんが、気がつくと、完璧を求めているのです。ふと僕の肩に乗って、じっと見ている気がします。