他人の痛みを自らの痛みとする

武士道精神とは、武力による戦いがあったとしても、たとえ戦いの最中でも、相手の痛みを自らの痛みとすることではないか。古来、戦場においても、卑怯な真似をしないとか、敵将への慈悲の念とか、そういうものを高く評価する傾向がある。たとえ敵でも、相手も同じ人間であり、仲間がいて、親兄弟がいて、痛みや悲しみを持っているのだという思いがそこにあるのだ。この、相手も自分と同じ人間である、という事が大切なのである。

 

日本には、制度として奴隷はいなかった。宦官も存在しなかった。これは、古来、日本人の心の中に、人としての共感があったと思うのである。

 

これに対し、西欧は、もともと奴隷社会である。植民地政策も、黒人奴隷も、相手を同じ人としては見ず、道具として扱っているのである。そもそも、古代ギリシャでは大多数の奴隷を使い、一部の自由人が国を支配していたのだ。奴隷を使うという仕組みが、人の形はしていても、一部の人を人として扱う事を止める思考を作り出してきたのではないか。朝鮮の両班と奴婢との関係もこれに類するのではないか。

 

また、中国は宦官による官僚の機構ができていた。人を支配する時、あるいは人に許しを乞う時、尊厳を捨てさせる事ができたのである。これも、相手を人でないものとして支配する仕組みである。中国大陸の過酷な歴史を考えれば、相手のことなどかまっていられない風土となってしまったことも理解できよう。

 

しかしいま、世界は各民族が密接に暮らし、肩を触れ合って生きなくてなならない。人類は、相手を人として扱う為の、心の転換の試練を迎えている。意識の刻みは深く時間によって覆われている。なかなか一気には出来ずとも、この試練を乗り越えなければ、明るい社会は見えないと思う。ウイグルチベット法輪功などのの人権問題、アメリカの黒人問題、是非克服しなくてはならない問題である。