精神的相互依存こそ課題

人間は与えられたものから選択することに慣らされてきた。子供の遊びにしても、ゲームとかレゴとかスポーツとか、何か与えられたものである。僕が子供の頃経験した、冒険というものがない。すべて与えられたものであり、その先がどうなっているかは分かっている。

 

僕が言う冒険とは、洞窟とか海とか山とか、そこに何があるかわからないことと関わることだ。蛇やカエルや昆虫や今まで出会ったことのない生き物との出会い。洞穴の奥に何があるか入るときのドキドキ感。木や斜面や崖も遊びの工夫の対象だ。

 

もちろん裕福な家庭で、お金を出せばそのような経験を"させて”もらう事も可能だ。たまに海や山に行くこともできよう。しかし、与えられた経験は、それだけでしかない。僕が言いたいのは、日常の身の回りに冒険し工夫する遊びの対象が無くなっていると言う事だ。

 

大人たちも同じだ。家も衣服も食べ物もほとんどが与えられている。それを選択し、ちょっと加工し使っているのだ。遊びにしても、ゴルフ・カラオケ・スポーツ観戦。趣味だってカルチャセンターで色々提供されている。もちろんDIYをやる人は、趣味の分野で自分の創意工夫を楽しんでいる。しかし、大部分の日常は、与えられたものだ。

 

さらに問題なのは、テレビだ。一方的に与えられるだけ。それでよしと思ってしまっている。おかしいとは思っていない。選択の余地がないから、ほとんどの人が与えられた情報で分かったと思ってしまう。

 

しかし、最も恐れるべきは、そのような与えられるだけの状況から発生する、精神的相互依存だ。与えられたものに依存すると言う事は、物に対する依存だけではなく、人・組織への併存となる。こうして自分の心から発する独立の精神が無くなってしまう。

 

世の中が高度に分類され複雑に関係してくるとなれば、個人が工夫据える余地がなくなるのは当然でもある。しかし、それによって、冒険の心を失った、社会に飼いならされた人間だけになったとしたら、世の中は恐ろしいものになる気がする。