物としてか、人としてか。教育は百年の計。

人を相手にするサービスで、その対象となる人を、物として扱うか、人として扱うかで、大きな違いとなります。仕事量が多くなると、どうしても人としてではなく、処理すべき物として扱ってしまうものです。

 

この事を強く感じたのは、老人ホームでした。食事の時、進まない食事をとにかく早く終わらせてもらい、次の作業に行こうとする時です。職員さんの気持ちもよくわかります。思うように動かない老人がいる事もわかります。しかし、一方、見た目にも美味しそうとは見えない食事を、強いられる老人の辛さも痛いようにわかります。

 

そんな時、ちょっとした言葉に、職員の本心が分かってしまうことがあるのです。自分も辛い、でも相手も辛いという気持ちか、自分は辛い、だから分かってよという気持ちか、どちらが多いかという事なのです。

 

職員の疲労度にもよる所があるでしょうが、その人の人間としての本質によって決まってしまうと感じるのです。人を物として見るか、人を人として見るかの心の癖の違いです。

 

こう気がつくと、何も商売の時に限らず、通常の社会生活でも、その心の癖は出てしまうことが分かります。その癖とは、痛みや辛さや心の内を見れるか、そしてそれを自分自身の心に届けられるかが、という度合いなのです。

 

僕は、この心の働きは、幼児期に作られるように思います。まさに、末期の魂百までもなのです。ですから、幼児期の教育が、その時の社会環境が、いかに大切かという事です。大人になってからではなかなか変えられないものです。そしてこの事が、社会を豊かにするポイントであると言わざるを得ません。効率と能力による選別では実現できません。教育は百年の計だと、改めて思うのです。