保守とはなにか

保守を角川の国語辞典で引いてみると「今ほまでの伝統を守っていこうとする立場や態度」となっている。では、革新とは何かと見てみると「それまでの制度や習慣・組織・方法などを改めて、新しくすること」とある。

 

しからば、僕は自分は保守と思ってはいるが、革新でもあると言える。確かに、現時点の日本政府・自民党は「保守政党」である。しかし、本当に保守であろうか。保守とは「守る」ものがあって初めて保守なのである。保守政党の守るものが、僕の考えていることと違えば、僕は迷うことなく革新となる。

 

では、僕が守ろうとするものは何であろうか。現在の社会状況はあまりにも、僕が守ろうとしている世の中とは違う。では、現在の「革新政党」の意見なのかと問われれば、それも全く違う。現在の、立憲民主党と国民民主党の結集にしても、野党の力を伸ばすと言いつつも、国民民主党の政党分担金50億円の行方が問題なのである。国民の生活や将来やそして現状をどうするかという強いメッセージは伝わってこない。

 

政治は力、結局のところ数、そしてそれしてそれは「お金」に行きつく。革新も保守もこの点は全く同じである。

 

確かに、政治の世界は難しい。一朝一夕で変わることもできない。でも、将来のあるべき国の姿を指し示すことすらしなければ、国民はだれの声を聴いたらいいのかわかるはずもない。現在の政治は、操作されたメディアからの声・外国の圧力・選挙の動向、そしてわが身を守ることによって動いている。

 

僕が現時点で「保守」と呼べる政治家を上げるとすれば、台湾の李登輝である。彼は「中共化」から台湾を守った。それは戦いであった。しかしそれによって、台湾人の心の思いを守ったのだ。だから彼は正真正銘の保守と言っていいと思う。

 

この時点で、保守を定義すれば、国民の心の奥底にある叫びを具体的に明示し、そのための方法を示し、実現していくことである。この「心の奥底にある叫び」なるものが何であるか。多くの場合、無言の大衆の中に存在する。日々を生きる家族を大切にしようとする成熟した思索深い魂の中に存在するものなのだ。多くの人はそれに気づかないこともあろうが、それに気づき教示し導く者が真の保守なのである。

 

そして、今の政治家の以前に、一部の国民がその叫びに気が付き始めている。絶望の中にも出口を模索している。一度灯った思想は消えることはない。それは歴史が証明している。