力を持つ者が正しい社会から正しく力を使う社会へ

民主化が進んできたとはいえ、香港やウィグル・チベットは勿論のこと、日本の一部裕福層とその他貧困層の二分化などを知るにつけ、真の民主化はまだまだ先に思えてしまう。かつての権力者から離脱を試み、血を流しながら獲得した民主主義ではあったが、人種を超え、宗教を超え、更に社会に蔓延る利権を超えるためには、まだ大きな変革が必要である。

 

現代の民主主義は、主権は国民にあると言いながら、結局のところ権力は一部の人間達のものに使われている。その本来の目的が達成されていないのだ。確かに、一局の権力であった国の支配者からその力を取り上げ、立法・行政・司法の三権に分立し、権力の暴走を止めようとしたのは良かったが、結局のところ、権力は一局にまとめられ、その力に支配されることになる。中国はまさにそうであり、日本とて三権分立は形骸化しつつある。

 

僕は、いくら権力を分散させようが、「力を持つ者が正しい」つまり「負けたのは力がなかったから」「自分がダメなのは努力がないから」という論理に支配されている限り、永久に民主化はできないと思う。確かに、努力をしなくて敗者になった人も多かろう、だが、時の権力支配に叶わず敗者になったり、何も努力しなくても勝ちを貪る人もいるのだ。だから根本は、力を持たなくてはダメという思想を脱却しなくてはならない。その思想があるから、「力を持つ」事に奔走し、それが「組織に役立つ」と評価されてしまうのだ。

 

西欧からやってきた民主主義は、「権力」にこだわってしまったのではないか。古来日本では、権力はそれだけでは存在し得なかった。権力は「権威」に結びついて初めて力を発揮できたのだ。その権威とは具体的には天皇であるが、それはこの世の始まりからの「神々の意志」なのである。古代中国で言えば「天命」なのである。そしてこれらの考え方は、社会や政治という現実に結びついていて、それと独立したいわゆる「宗教」とも違う。確かに宗教は祭政一致で後から政治権力に結びつくが、元々は両者は違うものなのだ。

 

僕は、今の民主主義ではなく、日本における「権威」や、中国の「天命」に立ち戻り、そこから「新たなる民主主義」に発展させるべきではないかと思う。そうすることによって、権力という「力」に頼らず、力を「何のために」使うかという事が大事になる。つまり、「力」より、「正しさ」の方が勝る様になるのだ。

 

権力そのものを得ようとしたり、権力を求めて狡猾に奇をてらったりするのではなく、何のために力を得て何のために力を使うかという、愚直に道を求めることが大切なのだ。人類は、この様な思想転換の時節に立っていると思う。