これから困窮する人が続出する。社会運営の変更が必要

コロナ騒ぎが始まり、半年になろうとしている。前代未聞の社会変化で、解決策も暗中模索の状態が続いている。政府もようやく救済に立ち上がり、その中で今までの蓄えを切り崩しながら、何とかやりくりをしてきたという状況ではないだろうか。そして、まだみんなが騒いでいる段階だから、お互いに横を見ながら何とかなるかと思って過ごしている。

 

しかし、この騒ぎが鎮まってきて、その話題が上がらなくなった時、社会の変化が定まってきた頃、今度は本当の切羽詰まった状況が発生するのではないかと思う。徐々に日常が戻りつつあるとは言っても、今までのような密集した環境は作れないのだ。少なくとも世界が認めるワクチンができ、このコロナを克服したとみなされるまでには少なくとも1年、いや何年かかかるかもしれない。その間、僕たちは生活を維持できるであろうか。収入を確保できるであろうか。

 

レストラン、イベント、スポーツ、劇場などは従来の半分とは言わなくても、6・7割で営業なのだ。移動の量の減少で、船や飛行機などの乗客も基には戻らないであろう。今までの様な経済活動は望めない。余裕なくギリギリでやってきた経済活動はもう続けられなくなるであろう。その時どうなるのであろうか。頑張れと言っても、立ち上がることができない人が続出するのではないかと恐れる。

 

うまく立ち回り、工夫して、そんな経済状況でも生活を確保できる人は多くはない。大部分は更に収入を減らし、ギリギリの生活を強いられる様になる。今までに様な緩やかな変化であれば、努力や工夫が足らないという言葉で切り捨てられたかもしてない。しかし、今回もそれでいいのであろうか。今までの間違った考え方で社会運営をしていいのであろうか。

 

弱い者を切り捨てる、黙っている人にツケを押し付けていく、そんな社会運営そのものを変革する時ではないか。自分が逃げ込めば、苦しむ人を見ないで行こうとする社会思想で、来たるべき社会変化を乗り越えることはできない。一度「力」を持ったら、それを手放さないことが正義となる様な、殺伐さがもう耐えられなくなるときが目の前にきているのだ。かつて、宗教と王政の弾圧に人々は立ち上がった。今度は権力という、力そのものを問い詰める時が来ているのだ。