手に感謝

日が経ったジャム缶を開けようとして開きませんでした。蓋の周囲を軽く叩きゴム手袋をしてやっと開きました。手の握力が減っていることは承知していましたが、やはりショックです。最近は、時々掌の筋肉が痛みを覚えることもあるのです。

 

しかし、68年間も使い続けているのですからしょうがないですね。そして今でもこうやって、僕の意思で手が動いてくれていることに、ひとしおの感謝の気持ちです。ちゃんと動かなければ、痒いところを掻くことも出来ません。字も書けません。自由にご飯も食べれません。

 

特に金づちやかんなやノコギリで作業をしている時、この上なく手を、いとおしく有難く感じます。力を入れると多少の痛みを覚えても、僕が何かを作りたいと思った時、ただ黙って僕の意に従ってくれている。なんと有難いことでしょう。そうですね、僕の魂は、今の僕の身体を借りて思いを遂げようとしているのですね。

 

目があるから外が見え、耳があるから鳥のさえずりが聞こえるのです。そう考えると、脳があるから自分を意識できているということです。身体がなくなったら、外を知ることも思いを遂げることも出来ない。愛する人間への思いも伝えられない。いや、その思いすら感じることが出来なくなる。ますます、この仮の宿りとしての身体が愛しい。

 

肉体を失った魂は、空高く白鳥のように飛び去っていくのだ。その時の僕の魂は、それまでの成した思い、愛した思いを力として飛び去るのかもしれない。そうだ、僕は手の温かみを感じている。