勘違い・思い込み・失言

相手のためにと思ってやったことが、かえって相手に嫌な思いをされてしまうことがある。良かれと思って一生懸命に相手を説得しても、ダメな場合が多い。楽しまそうとしてちょっと発した言葉が相手の逆鱗に触れるということもある。解決のため必死にやったことが、思わぬ落とし穴に嵌ってしまうこともある。

 

自分の意図としたこととまったく違う予想外のことに出会うとは、人生常のならわしである。僕もこのようなことは何度も経験してきた。今回もちょっとした、いや大変なというべきか、過ちをした。それは、コロナ感染で少なくなった仕事の分配の件である。解決を時間にせっつかれて急ぐあまり、不平等感を持たれてしまったのだ。全員が不平等やむなしと思っていると勘違いしていたのだ。誤りを認め、当面の解決策としては僕の方式でやるが、コロナ感染の対応が長期に渡るなら再考するということで落ち着いた。

 

思った通りではない人の世、勘違いや思い込みは何時でも起こると覚悟していなくてはならない。でも、こういった場合、失敗した後の対応が大切なのである。自分を責めて落ち込むことも、自分の陥った過ちを弁明してもダメなのだ。自分の小さな枠に囚われずに、より大きな高い観点から自分の過ちを認めることが大切。世に中には、自分の小さな世界には無い、いろんなことがあることを認めなくてはならない。こうやっって自分自身の行為や癖を修復し、世間をより深く知ることになるのである。こういうふうに、前向きに心構えをすべきなのだ。

 

しかしそれが可能なのは、自分の心に邪な心、つまり自分だけを利する心がない場合でもあるのだ。でも残念ながら、何時もそんなに清廉潔白であるはずもない。政治家のちょっとした発言・失言などは、そもそもその言葉の裏に、公言できない思いがあるはずなのである。

 

先日、自民党の安藤裕議員が、中小企業が潰れてしまうため、コロナ対策の補助金が緊急である事を訴えたところ、ある自民党幹部は、なんと「潰す」と答えたそうだ。何か別の意図でその発言があったとしても、これは失言に匹敵する。そして、その自民党幹部は、その失言を「解決」できるであろうか。おそらくできないと思う。誰かを利するために、別の者を排除する必要があったのだ。

 

自分の過ちを認める潔さは、その裏に修練された生き方がなくてはならない。そしてその修練こそ、武士道の心構えの一面でもあると思うのである。現代の多くの政治家、いや我々自身が持ち合わせて無いものでもある。