武士道こそ宗教の進化したもの

宗教は人類目覚めるまでの方便として存在している。 信仰心が深くでも、神や仏を見たこともなく、それは心の中で感じるしかないものなのである。 神という絶対の存在を通して、理屈を超えた「正しさ」を提示するのである。 かつて人類が自然という神と共に生きていた時、神を作る必要はなかった。 しかし、生存競争に勝ち抜くために、社会という虚構を作りあげることを思いつき、地球の覇者に上り詰める過程で、自然という絶対の存在を忘れていった。 

 

何かの意志が、忘れ去られていく絶対を「神」という形で残し、人類の目覚めを待ったのではないか。 神は遠い存在であって、信じる者であっても、それに触れることはできない。 この世とは別次元のものなのである。 宗教とはあくまでも「与えられた」ものなのである。それを、かつての自然と共存してきたときの心の残像として、何かの意志が、宗教として残したのではないか。

 

しかし、さて、これだけ不正と謀略がはびこる世界にあって、その不正がアメリカ大統領選挙で暴かれつつあるとき、「神」というものが、僕たち人間の中にあるものであったと気が付き始めた。 神という絶対不可侵の存在を持ち出さなくても、僕たち自身に正義を求める心、不正をおかしいと思う心、残虐な現実を痛む心、人を騙すことを許せない心、これらが僕たち心の中にあったのだ。 肉親や人を思う心、おかしいと思う事に立ち向かう勇気や潔さ、相手の痛みや苦しみをわが身に感じる優しさ、人のために尽くす人への尊敬、身勝手なふるまいへの怒り、責任を放棄した堕落のへの怒り、そしてこれらの心の動きを侮蔑する思い上がりへの怒り。

 

 僕はこれこそ、武士道であると思った。神という絶対の存在で人の道を説くのではなく、僕たち自身の生き方で道を説くのである。神からの指示ではなく、僕たち自身の自発的な生き方の道なのである。武士道とは、神というギブスを取り除いても、自分たちを律することが出来るための心構えなのである。宗教を自分たちの生活の中に取り込んだものが武士道なのであると思った。

 

日本人には宗教観がないと言われる。もしかすると、日本人には既に宗教は不要なのではないか。その心の奥底に武士道があるから。