「検査しすぎると医療崩壊する」の誤り

日本政府の論理は、「検査をしすぎると患者が増えて、医療現場が対応できず崩壊してしまうから、検査は制限する」というものである。これは、「実際にはもっとたくさんの感染者がいると思うが、そのまま野放しにしておく」という意味なのである。そして、これはもっと恐ろしい論理を含んでいる。つまり、「どのみち、ある程度の死者が出て、社会的に免疫を持った人間が多くなれば収束する。だから、とりあえず、医療現場にはそのような感染危機を持ち込まないで、ある程度落ち着いたら医療として本格的に対応をする」という事なのである。

 

この根底にはある種の保身心理が存在するが、それは誰でも持っているものであり、今回の医療現場だけのことではない。しかし、この論理で社会を構築していくと、社会が成り立たなくなる。経済危機において、経済人が先頭に立ってその役割を果たさなければ、国の経済は破綻する。教育においても、農業においても、科学技術においても、その先頭に立つ人は使命感を持ち、立ち向かっていかなくてはならないのである。明治維新からの日本の発展は、そのような風土の上に成り立っていた。

 

しかし、どうであろう。医療崩壊するから検査を制限するというのは、その使命を放棄しているのではないか。崩壊しそうであれば、あらゆる手立てを使って、対応することを考えるべきだ。例えば、ホテルや公共施設や体育館、これらを一時的対応現場にし、重症者と軽症者を区分するなどの工夫をし、準医療関係者やボランティアも含め体制を模索するのだ。そうすれば、国民は、この事態を人ごとせず、お上の役割と決めつけずに、医療現場だけの責任とせず、一心に自分達のこととして、国を守ろう自分たちを守ろうと動き始めると思う。

 

隣りの台湾を見ると、政府から民間まで一体となって国を守り、素晴らしい結果を出しているではないか。まるでかつての日本を見るようである。僕は、今の日本国民として、生きる厳しさ使命感の欠如を突きつけられた恥ずかしい思いがする。僕がこれからどう生きたらいいかの意識構築に、この点も追加しよう。