意識のはじまり、自分を見る。

意識の始まりは、自分を外から見ることが可能になった瞬間です。では、自分を外から見ることが可能なのは、どういう条件がそろった時なのでしょうか。

 

自分という意識がない動物でも、敵が襲ってきたら必死に逃げるでしょう。それは、敵を「認識」したからです。そして身体に逃げる行動を指示したのです。でも、逃げるなら、自分の状態を認識し、どこに逃げたらいいかを判断しているはずです。とすると、自分を見ていると言う事になります。さて、これは正しいでしょうか。

 

例えば、剣道で相手の動きに反応して竹刀を振り動かす時、自分の状態を認識したり、意識して動作したりしているでしょうか。そうではないと思います。それは瞬間的に、体が動いているのだと考えられます。しかもそれは、繰り返しの修練によって付加される能力でもあるのです。

 

ですから、先ほどの動物が敵から逃げる時の行為は、意識した結果ではなく、上記の剣道の動きに似たものだと思われます。動物的行為は、人間が思いつくような意識的行為ではないと言えるのではないでしょうか。

 

意識とは、自分の状態を把握する必要に迫られ、苦闘の結果気が付いたものと思っています。何らかの状況で、リーダーや仲間から繰り返し攻撃された場合、自分から離れて自分を見ることによってその理由を知るのです。それは、何らかの癖であったり、肉体的特徴であったりして、それが相手に不快や誤解を引き起こしているかもしれません。単に動物的な反射だけの繰り返しでは、永遠に見つける事ができない理由です。その理由に気がついた時、自分を「意識」して見ることになります。

 

意識とは、初めから存在していたものではなく、気がついて知るものでます。空気の中にいては、空気の存在に気が付かないけど、水に潜れば気がつきます。健康だって、病気になって気がつきます。これと同じではないかと思うのです。

 

ですから、意識とは心とも違います。心とは、肉体が持っている手足と同じように、魂が持っているものです。意識はそれに気が付いただけです。だから、心の悩みを見るときも、心そのものに何らかの傷があるのか、意識が勝手に心を解釈した結果なのか、見極めなくてはならないのです。そしてそれを見極める作法が内観ではないでしょうか、今の僕はこの様に考えています。