台湾の歴史2(日本の統治)

台湾には、土着の民族がいるが、国という形式は成していなかった。一方で、福建省辺りから移り住んだ中国人は、祖国という感覚を持っていた。時代は、明、清である。しかし大陸とは違い、島の閉じた世界でもあった。だから、戦乱のたびに、民族が入れ替わる大陸の様な殺伐とした感はなく、腰を落ち着けた感じを僕は受け取る。特に、台湾山地の高砂族は、勇敢で、中々馴染まないが、ひとたび帰順するととことん誠意を尽くす。日本人の感覚に近いと思う。この点、中国の属国として、絶えず強いものに寄り添う性格の朝鮮とは違う。

 

土着人と中国人が混ざり、すくなくとも、日本がやって来るまでは、中国が「祖国」であった。北京語とは違うが、言葉は中国語だ。だから、日清戦争で勝った日本が、台湾を統治し始めると抵抗する勢力があったのである。1895年から数年間は飴と鞭による日本の統治であった。ただ、オランダ、スペイン、さらに明清の様な、自分達の利益のために搾取する統治ではないものであった。衛生状態が悪く疫病がはやり、また山岳地勢でこれといった農作物もない台湾は、貿易の中継基地としての意味しか無かったのである。しかし、日本の統治は、それを根本的に作り直し、自立した土地とすべく整備する事であった。

 

このことは、時間と共に台湾人にも伝わってくる。第4代児玉源太郎総統の民生官、後藤新平は、「台湾近代化の父」と称せられる。その医者としての見識は、台湾の上下水道などの衛生設備を整え、マラリヤ、ペストなどの疫病を抑えた。勿論その他社会インフラを整備して台湾を近代化させた。また、後藤と同郷の新居戸部稲造は農業専門家として、さとうきびの品種改良を行い、製糖業の基礎を作った。

 

第5代明石元二郎総督は、ダムの水力発電で最大10万キロワットの電力を、北の台北から南の高雄までの送電した。更に交通網の整備、教育制度司法制度の改革などを行い、明石は台湾に埋葬され、台湾の土となる。また、八田興一は、当時東洋一の規模を持つ烏山頭ダムを完成し、台湾南部の嘉南平野を緑の穀倉地帯とした。

 

このような実績が、太平洋戦争で台湾人を「日本軍」として勇猛に戦わせたと思う。最初に書いた、高砂族はその一例である。日清戦争から太平洋戦争終結までの50年間は、本土大陸中国より台湾を近代化させ、台湾の基礎を作ったのだ。