デモクラシーは日本にはいらない

デモクラシーとは、デモ(demos:民衆)のクラシー( cracy:政治、支配)、つまり民衆による政治ということだ。これに対し貴族(aristos:貴い生まれの人)政治(cracy:政治、支配)、アリストクラシーという言葉がある。

 

つまり、デモクラシーとは、民衆が、貴族たちを革命によって倒して得た政治権力という意味である。デモクラシーには、貴族を否定して民衆による政治に置き換えた、というニュアンスがある。デモクラシーの日本語は「民主主義」である。僕たち日本人は、民主主義というと、専制的ではなく温和な体制というイメージがある。でも、デモクラシーとは戦闘によって勝ち取ったものなのである。

 

ここに日本人の感覚のずれがあるように感じる。デモクラシーには目覚めた民衆の感覚が必要であり、貴族という、時の権力にとって代わる意識が必要なのだ。今の日本の民主主義を見ると、上から与えられた「自己の要求をする権力」、という感じがする。

 

日本には「自分」つまり、自らの分、という言葉がある。自分という言葉の中には、自分達は自らの分を果たす人間である、という意識があると思う。自分たち民衆は、自分たちのやることをやる、だからあなた方「お上」はあなた方のやるべきことをやりなさいよ、ということである。テレビドラマの水戸黄門や、大岡越前はそのような感覚によって支えられていると思う。そのお上が変なことをするなら、銭形平次が出てくるのである。

 

昔は自分たち下の者は、難しいことはわからないから、上の者はちゃんとしていなさいよ、という役割分担のけじめがあったと思う。そして、上がだめなら懲らしめる、下の者は自分達のやるべきことを一生懸命やった。それで長い間やってきた、上にとって代わろうとは思わなかった。

 

この様な日本人の感覚の中に突然、戦後、横からデモクラシーがやってきた。混乱し、その変化を消化しきれないのは当然です。日本人は今一度、原点に戻って、自分たちはきちんとやるから、お前たち上の者もちゃんとしないとだめだよ、というとことから再スタートすべきと思う。今は、上も下も節操がない。

 

そうは言っても、現在の日本の政治体制でどうするか。僕は、お上にちゃんとした人が出て、下が納得する形を取り戻したいと思う。上も下もそういう意味で勉強しなくてはならないと思う。元来備わっていた日本人の品格と、山本太郎のような真に民衆を思う人に、期待したい。