集団と個人

人は集団を作り、その中で生きている。それは、自分たちを守り、子孫を残していくためだ。当然の成り行きとして、他の集団との争いが起こり、あるいは略奪し、あるいは滅ぼされた。人類誕生のころ、集団は全員がお互いを知り、自分たちのために命を懸けて闘ってきた。個々の命と、集団の使命とは、何ら食い違うことはなかった。

 

農耕が始まると、定住して生活するようになり、より大きな集団をまとめていく必要が出てくる。支配する層と、その他多数の被支配層が誕生する。そうなると、支配層の目的遂行のために、多数の被支配層は、本来の自己の求めるべきものとは違う生活を強制されていく。個々の人間の生きる目的と、集団としての目的は明らかに違ってくる。

 

この集団としての目的と、個々の構成員の目的の乖離は、都市が構成されるようになると、ますます大きくなっていく。その乖離が限界に達すると、社会の崩壊が起こり、滅亡や新たな集団が誕生した。人間は、幾多の戦争や社会の変革を経験し、思考を積み重ね、個人と集団との乖離は乗り越えつつあるかに見える。

 

しかし、どうであろうか、現在の社会の中で、個人の個人としての目的の遂行ができているのであろうか。個人の幸福追求の権利は憲法に書かれていながら、相も変わらす集団としての社会の目的と、個人の目的とは乖離しているように思える。

 

人類はこの乖離を今までと同じように、戦争や興亡で乗り越えていくのであろうか。僕はもうそれはできないと思っている。その理由は2つ、人類が地球を滅ぼすだけの力を持ってしまったことと、多数の人々が従来の被支配層のような従属的な存在ではなくなってしまったからだ。

 

支配層の目的や意図を、その他の多数の人々が知るようになってしまった今、従来の変革ではなく、今までに経験をしたことのない集団形成をしていかなくてはならない、と僕は思う。