言葉の限界、憲法を考えるときに

言葉って不思議な存在だなぁと思う。何のためにあるのだろうか、そもそもどんな役割を持っているのだろうか。

 

言葉は、人間同士が何かを伝え合うための道具である。そしてさらに、自分自身に対しても何かを言っている。では、その「何か」とは何なのだろう。僕はそれは、心の奥底にある感性の振動のようなものと思っている。

 

人は自分の思いや感性を言葉を通して人に伝える。でもそれは、言葉にできる部分しか伝わらないし、言葉にならない部分もたくさんあるのだ。だから、そういう観点では、はじめに言葉ありき、ではなく、はじめに人ありき、なのだ。

 

例えば失った悲しみや出会った喜びなどを、手紙やメールで気持ちを伝えたとしても、伝わらない部分がある。でも直接向かい合えば、言葉はなくても一発で「わかる」のだ。それは人から発生られた何か振動のようなもの。

 

しかしながら困ったことに、世の中は、このような「言葉」によって伝達し合い、成り立っている。ということは、「社会は、はじめに言葉ありき」なのだ。人ではないのだ。さらに困難なことは、言葉は人によって違った解釈をされているということだ。同じ「自由」と言っても、そのとらえ方は人によって違う。

 

この難しさを大きく背負うことになるのが、憲法である。主権とか国民とか平等とかいっても、それを「共通」の認識に成り立たせるかということが、どれだけ難しいか容易に想像できる。仮にそれができたとしても、その言葉のだけで、人の中にあることをすべて主張できないのだから。

 

僕はこのような言葉の制約を念頭に置くことも、憲法を書く上での重要な要件であると思っている。