日本一個分の暮らし

れいわ新選組参議院候補として立候補した、辻村ちひろ氏のキャッチフレーズは「日本一個分の暮らし」だ。僕はこれが単に環境の問題ではないと気が付いた。産業とか経済の根本的パラダイムシフトを意味している。

 

さて、僕はかつて、アメリカに何カ月か旅行した時、印象深かったことがある。それは、アメリカのスケールの大きさとパワーだ。バスで一日移動するも果てしなく続くとうもろし畑、そしてその畑を耕運するトラクターの運転席は、まるで3階の窓から下をのぞくようだった。そのパワーに圧倒されるも、アメリカ人の人懐っこさで、それは憧れになっていく。アメリカのように力強くなろう、僕はそう思ったものだ。

 

あれから40年、僕が目の前にしている日本は、あの目に焼き付いたアメリカの光景ではない。相も変わらず、狭いところにひしめいて、小奇麗ではあるがパワーを感じることはない。パワーを出すこともなく、疲れ切っているという印象なのだ。

 

確かに、日本も頑張ってきた。世界に関たる企業もある。しかしそのパワーは、あのアメリカのパワーとは違うものだ。そもそも日本の体質では、アメリカのようなパワーを作り出すことは出来ないのだ。目指す方向が違うのではないか。大きな力によって社会や自然を支配していくものではないのだ。もっと小さく、社会や自然に寄り添ったものだ。

 

ここで、辻村ちひろ氏の言葉に戻る。「日本一個分の暮らし」、これこそ、日本が目指す方向ではないか。アメリカは大きく力強いが荒っぽい、これに対し、日本は小さく整った美しさを目指している。大きくパワーがないと効率的ではないというのは幻想であり、新しい「効率」を創造していく必要があると僕は思う。

 

巨大な耕地ではなく、里山を創り出した日本人感覚と知恵で、きめ細かい農業の方法を再構築できるのではないか。山河を切り崩し、巨大な電力を作りだすのが効率的で有効である、というのは間違えであった。その誤りの究極が原子力発電であった。だからこぞ、農業と同じく電力や工業も、新しい価値観で再構築していくことを、日本人にはできるのではないか。

 

そして、僕は、日本憲法の中にも、この日本人の感性を織り込ませている必要があると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小さく整い美しい

 

大きく荒っぽく力強い

悪いと言うのではない、日本人には合わないと言いたい。

憲法でもこの違いを盛り込む必要

パワーを誇示するのではなく、小さくても光る国を目指そう。