消化型と学習型の戦い

昨日、人間の理解には学習と消化という作業が必要であるという事を書きました。そもそもこの議論の発端は、人には、他人にコントロールされやすい人と、コントロールされにくい人がいるのではないかという事なのです。

 

人にも社会にもこの両者がバランスよく存在することが必要だとも言いました。学習して消化していく。この過程によって、本当の理解、納得が得られるからです。

 

しかし、現代、余りに急激な変化で、学習だけで消化できないまま物事が進んでいってしまう事が問題であると思うのです。学習段階のまま次の学習に入ってしまうと、段々「本当の理解」というものが分からなくなってくるのではないかと思うのです。

 

このサイクルに入ってしまうと、「学習段階」で、なにか「分かった」と思っているのではないか?

 

僕は、アメリカのリベラルの人達、「進歩的」と自らを認めている人達について、色々な情報を聞くと、この学習段階で分かった気になっているのではないかと思うのです。

 

現在、民主党リベラル派の首長の都市で、犯罪が増えています。たとえは、ニューヨーク・マンハッタン地域担当の検察官が、盗みや強盗は軽犯罪であると言っている様です。この様な考え方で取り締まっていたら、治安が悪くなるのは当然です。本当にそれが社会にとっていい事と思っているのか、理解に苦しみます。

 

この様な主張を持つ人は、この様な治安の悪いところに住みたいと思っているのでしょうか。この様な状態は、社会的変化の一過程であって、次には明るい社会が実現できると思っているのでしょうか。

 

この様な考え方は、頭だけで作り上げた空想の世界であって、自分の体を通して「理解した」事ではない。ですから、僕は、この様な人たちを「学習段階」で終わった人達と理解しているのです。

 

勿論、これらの問題ある社会を作り出した、首長など社会的上層の「利権」に問題があることもわかります。ただ、さらに根深い問題は、この様な頭だけの論理を受け容れる「一般市民」も一定層存在するということです。マスコミのプロパガンダが直接の原因と言えますが、そのプロパガンダを受け容れてしまう人間の心理的要因も理解しておく必要を感じます。