毅然として正義を守るには、胆力が必要

1月6日はあまりに劇的だった。午後1時に始まったアメリカ上下合同会議にて、ペンス議長がその権限としての選挙不正への異議を唱えず、議事を進めると宣言した。その後、テッド・クルーズアリゾナの選挙結果に対し異議申立てをし審議をしている最中、午後2時頃、暴徒と呼ばれる人達が議場に雪崩れ込んだ。死者を出す大騒動となる中、議員たちは非難して身を隠した。

 

ここで、暴徒と呼ばれる人が誰なのかは、検証が必要である。トランプ支持者が怒り心頭であったことは確かであるが、その中にアンティファやBLM関係者がいたと言う情報もあり、一大茶番劇の可能性もある。この経緯も腑に落ちないものがあるが、さらにその後、議事が再開され、アリゾナ異議の評決をやっているのである。そして、同異議は否決されているのだが、なんと提案した共和党議員も93対6で反対しているのだ。

 

それにしても一体何が起きたのであろうか。暴動後の議員たちが不安になり、その直後に異議を唱えることに怖気付いたとも十分考えられる。仕組まれたシナリオとしたら、なんと恐ろしいことであろうか。暴力を使った心理戦とも言える。

 

しかし、冷静に考えると、いざとなったら頼れる議員がほとんどいないと言う事が分かったのである。ペンスも沼の大鰐であることjも分かった。もし、この事まで織り込んでいたのなら、トランプの作戦は当たったと言える。

 

だが、僕はここで感じるのは、この頼りない議員たち、偉そうに国民の上に立つ人達の不甲斐なさである。暴動直後の採決という奇怪な議事進行はさておき、大多数の議員は、こういった有事の事態に毅然とできず、肝を潰してしまったのだ。つまり、腰を抜かしてしまったのだ。そして流れは決まった。挑戦は、アリゾナペンシルバニアだけに留まり、その挑戦も軽く否決されてしまった。不正の真実を国民に公にする機会も失ってしまった。

 

悪事を働く人間は、内部から崩れていくと僕は想定していた。しかし、そのためには、肝の据わった正義漢が必要だったのだ。正義を守るには、胆力が必要なのだ。かつての日本の政治家達の様な、胆力を持っていたら、今回の様な流れはできなかったと思う。

 

戦前の軍隊教育を肯定するものではない。しかし、その中に、信念を貫かんとする胆力を鍛える要素はあった。だからこそ、日本は、あの戦争で、男も女も、最後まで日本を守る胆力を発揮したのだ。戦争で国民を死へ追いやった事はそのままでは肯定できない。しかし、何かを貫くには、胆力も必要であることを、今回のことから学んだ。精神修養といってもいいだろう。

 

それは、肉体を鍛え、精神を鍛えることである。鉄を叩いて強い鋼を作る様に、肉体の緩みを叩き、精神の緩みを厳しく諌め、強い肉体と精神力を作っていったのだ。そういう要素が戦前までの日本社会にはあった。今回のことから、日本の戦前教育の一方的な批判によって失ってしまった、胆力という教育要素に気付くきっかけを得たと思っている。