個人の覚醒への道

一部の人々は、メディアによって支配されたイメージが、真実でないと気づき始めている。如何に嘘の世界に洗脳されていたかを知ってしまった。しかし、一方で、多くの人は、相変わらずメディアの言うままに流されている。なぜこの様な意識の格差ができてしまっているのか考える。僕は、それは、個人の覚醒の違いではないかと思う。

 

さて、人が迷い、不安に苛まれるのは、自分の拠り所がないからである。拠り所とは、それを疑問に思って悩むことの無いものである。これは正しいのか、これで良いのか、明日の自分もこれで良いのか、そう悩むことの無い状態こそ、自分の拠り所と言えよう。

 

昔は、恐れ多い神がいた。だから、それ以上は考える事は許されず、必要も無かった。しかし、今はいない。現在、信仰者といっても、それは昔の信仰とは質が違う。信仰していたとしても、真に神を恐れ、それに従う人は少ないと思う。信仰といっても、それは俗なもので、命を賭けてその道に従う人はほぼいないのでは無いか。

 

神から解き放たれた個人は、新たな神、つまり自分が絶対の拠り所とするものを見つけ出さなくてはならなかった。これはまさしく、近代の、神の束縛から離れ、人間性を解放された裏で、西洋哲学が新たな拠り所を求めもがいていたこととも同期する。

 

日本においては、人々は、戦後、価値観がガラッと変わり、戦前が否定され、迷いながらもひた走った。これは神を失った迷いと同じ構造である。しかし、実は日本は、明治維新と言う近代化で、既に神を失っていたのだ。つまり、二重の喪失なのだ。しかも、戦後の日本は、戦前に陥った喪失をも見失っているのだ。

 

話を戻そう。メディアによって隠された真実を知ろうとするには、しっかりとした個人が必要なのでは無いかと思った。真実を知ろう、新しい世界に目を向けようと言っても、その人自身が不安で迷っていたらそれどころでは無い。新しい情報を見せられても未だ既存メディアの情報に頼る人達には、そう言う人が多いのでは無いか。そんな気がする。

 

しっかりとした個人があってこそ、真実を見極めよういう動機が生ずる。個人の覚醒とメディアからの脱却は、同期していると思う。憚らずに言うならば、僕は覚醒している、いや、少なくとも覚醒しようと努力してきた。自分とは何かを考え続けてきた。メディアに隠された真実を知ろうという気持ちは、自分とは何かを考え続けてきた気持ちと同じだ。神の喪失からの脱却、個人の覚醒、偏向報道を卒業し真実を知ろうとする気持ち、これらは、同じポイントを指している気がする。