監視社会

家族や恋人同士がお互いの位地を確認するための、スマホのアプリが流行っているとのNHKの報道があった。これはとても便利だ、と言う観点で紹介されている。街角のインタビューで、若者たちがお互いの位置が分かることで、今電話をして良いかを知ることができてとても良いと言っていた。

 

しかしこれは、使い方によっては、お互いに監視し合うと言うことになる。言わんかな、ある女性は、恋人の居場所を監視できると言っていた。お互いに人間関係がうまく成り立っているなら、それも楽しみの1つになるかもしれない。しかしそうでない場合の方が多いのではないだろうか。

 

僕は、たとえ良好な人間関係であっても、このようなアプリは使わない。ちょっとした隙間の時間に息抜きをしたり、興味のあるお店に立ち寄ったり、人間には自分だけの時間が欲しいのだ。

 

そもそも、この報道を聞いた途端、中国の監視社会に思いをさせてしまった。そして、うがった見方かもしれないなが、これは監視社会への抵抗を少なくさせるための誘導のような気がしてしまった。

 

人間は、法律や規則やそれだけで規定されるものではない。それだけでは網羅されない微妙な行為があるのだ。そういう緩みと遊びを認め合って、その上で信頼関係を築いていくのが一番良いのではないか。全てを伝え合い監視し合う感覚こそ、社会と人間関係を破壊するもののような気がする。