議論は社会分断を解消できるか

ツイッター社は、トランプのアカウントを1月8日永久凍結した。同社CEOドロシー氏の説明では、「先週に発生した連邦議会議事堂乱入事件の扇動に続いて、さらなる暴力を誘発する恐れがある」からであるということだ。そしてさらに、同支持者のアカウントも次々に凍結されている。

 

ドロシー氏の見解では、トランプ大統領が「連邦議会議事堂乱入事件の扇動」したことになっている。トランプ大統領が平和的に「Go Home」を呼びかけたこと、堂乱入事件の扇動に左翼アンティファのりーだがいた事などは無視されている。

 

一方「ウイグル人を弾圧していない、弾圧の報道はデマだ」というCCP中国共産党については、問題ないとしている。

 

どうひいき目に見ても、この判断には、矛盾と無理がある。連邦議会議事堂乱入事件の真相に迫れば、トランプ大統領アカウント凍結には無理があるし、CCP中共の擁護にも無理がある。

 

おそらく、ツイッター社ドロシー氏と議論しても、話し合いにはならないと思う。論拠としている「真実」が違うのであるから、どうしようもない。真実を見ることを拒否しているとも言える。

 

同じことが、昨年連邦最高裁でもあった。テキサス州から提訴された、ペンシルバニア州など4州の選挙違反による損害訴訟も、テキサス州には「提訴資格ごない」という理由で却下された。こじつけでしか無い理由で、「真実を見ない選択」をしたのだ。

 

証拠のない架空のでっち上げを論拠に、議論を持ちかけているのでないのに、その事実を見ようとしないのは、もはや議論ではない。その事実を見ないことにして、自分の主張を押し通そうとしているだけである。もし、自分の正しさを主張するのであれば、正々堂々真実と向かい合うべきではないか。

 

話し合いが成り立つためには、その前提としての「真実」の共有が必須である。「真実」の前に「主張」があるのであれば、議論は成立せず、社会の分断を助長するだけである。理屈の前に主張があるのは、中世暗黒時代の宗教弾圧と同じであり、過去の遺物として排除してきた物ではなかったのではないか。ナチ、スターリン毛沢東という1千万人以上の虐殺を行ったロジックも同じ構造をしている。

 

今回の大統領選挙不正の事実を最後に、「真実を見てから議論する」という社会文化にしなくてはならない。そして、僕は、その背後には、「お互いを認め合う」という意識がないとダメだと思う。人類が、生命として立派に成長する岐路に立っていると思うのである。