上昇思考ではなく、日々の生活に満足する教育

かつて学ぶ事は、楽しみであり娯楽でもあった。日々の生活に追われ、働くことに縛られていた時、これはなんだろうと言って調べたり、不思議だなぁと思って思索したり、それは豊かな知的な時間なのであった。絵を描いたり歌ったり詩を書いたり、それは高度な知的な創造の世界であった。自然を描写するのも良い、恋心を伝え合うのも良い、それは人間だけに許された知的な喜びの空間である。

 

しかし、その学びの場である今の学校が、どうして面白くないのであろうか。今の学校は、学びの面白さ楽しさを伝えるところではなく、学びの苦痛を味わうところと化してしまっている。学びそのものに喜びを感じる生徒はほとんどいないだろう。学びは別の価値に対する二義的な価値となってしまっている。

 

その原因は、教育が本来の目的ではなく、世の中の仕組みにとって都合良いものにする事が主目的となっているからである。教育は、競争であり上昇志向であり、止まったり迷ったり逆だったりする事は、排除すべき事と言うのが前提なのである。

 

もちろん教育には、社会をより良くしていくと言う役割もある。しかし、本来は、喜びを味わったり楽しんだり感動したり、人生をより豊かに生きるためのものでは無いだろうか。競争に勝ち抜くより、日々の生活を楽しめる、幅広い感覚を持った人間を育てることが、教育の目的ではないかと思う。

 

そんな夢みたいなことを言っていては相手にされないかもしれない。しかしそもそも、人生とは、社会とは、そんなものなのだと言うことを、僕たちは知らず知らずのうちに押し付けられているのではないだろうか。本来の感動と本来の豊かさを取り戻すこと、これがこれから教育に、そして社会に求められることだと言う気がする。