読経が心身の芯を作る

昨日、令和3年2月1日、母は老人ホームで93歳の誕生日を迎えました。片脚切断から2年半、一時は心身共に気力が衰えました。さらに、コロナの影響で、ガラスの越しの面談となって久しいです。

 

僕は、励ましの声が届かなくなることを危惧して、面談時にいろいろ工夫をしてきました。字を書いたり、絵を描いたりやらせてみました。しかし、それ自体に何かの楽しみがなければ、かえって苦痛です。粘土で小さな人形を作って見せ、母にもやらせてみました。しかし、手先が器用に動かなくては、これも苦痛でしかありません。また、思い出の写真も、そもそも記憶に乏しくなっていて、あまり効果はありません。

 

結局、思い出や本人の努力に頼る事は効果がないのです。それより、本人の感情や感覚に直接訴える事が重要です。情景が浮かんだり、過去の記憶が引き出されるものです。歌では、ヤシの実と朧月夜が楽しい様でした。また、本では、「春はあけぼの」の絵本がとても良かった。しかし、これも、何遍も繰り返していると飽きてきてしまうのです。楽しさを求めても、結局それは一瞬の感情でしかないようです。

 

実は、現在母を元気付け、支えているのは、読経です。昔、母が読経に使っていた教本を見つけたので、見せたら懐かしいと言って読みはじめました。般若心経は覚えているようなので、その部分だけを切り取って教本にして渡したら、毎日読んでいるようです。ガラス越し面会でも一緒に読経します。楽しいとか面白いとか言うのではなく、ただただ読経するのです。

 

「お母さんが般若心経を読んでくれるから、守られている気がするよ」と言うと、「そうかね〜」と言いながらまんざらでもない様子です。お経は、心身に染み込んで芯を作っていくといわれます。意味が分かる分からないではなく、楽しいと言う事でもなく、ただただ仏様や宇宙に繋がっていく感覚だと思います。たまたま信心深い母であったからできたことなのかもしれません。しかし、どういう手段を使うにしても、この宇宙とつながっていると言う感覚こそ、最後に人間をしっかりとさせる手段であるのだと思った次第です。