17歳の君へ3回目

アメリカ大統領の就任式が異例の状態で行われた。君のこと忘れていたのではないけれど、僕は、心の旅をしていました。きっと君も、こうやって心の旅をしていたことでしょう。

 

さて、この前回、心は自分のものではないと言ったよね。これについて続きを書くことにしましょう。手も足も動かすことができます。でも手も足も自分のものではなく、天からの借り物なのです。僕は心のもそうだと思っているのです。

 

心は自由に動かせると思っていますか。僕はそう思っていません。心の背後に強い力があってその力によって動かされているのです。僕たちにできるのは、ほんのちょっとその方向を変えるだけです。しかしその方向を変えるということで大きく変わることができます。それは、心の変化によって体も元気になったり弱くなったりすることからもわかります。

 

僕は40代の時、夜中の2時ごろ東北のある駅で寝台特急札幌行きの北斗星を待っていました。その時の印象は今でも覚えています。遠くヘッドライトが見え、やがてゴーッと言う地響きとなり、はるか遠くにその姿、機関車が見えたのです。無言で客車を引っ張るその姿に、背筋がぞくぞくとして、力そのものを感じたました。

 

その感動のエネルギーは、現在の僕にも続いています。そのエネルギーを感じるたび、僕は勇気が湧いてきます。何か天から力が僕に流れ込むように思うのです。「宇宙霊は、その力を人に流し込みたくてうずうずしている」と、中村天風は言います。さらに、積極的に前向きに考える人にその力は流れ込むともいいます。僕もその考え方に同意しています。

 

そしてその力、を心を使ってコントロールし運転しているのは、僕自身です。手足と同じように、心も僕が借りている道具です。心とは天からの力をうまく動かすために僕たちに与えられたものなのです。

 

心がなければ、僕は感動することも楽しむこともできません。人間は、手足や心がなければ何もできないものなのです。つまり、自分とは、心や手足を天から預かったものと理解しています。これは魂の考え方ともいえます。そういう捉え方をしたらば、デカルトの「われ思うゆえにわれあり」ではないですね。そのように考えると、君が言うように、その「我」とは何かと言う疑問が出てきてしまいますね。君もよく考えていたなぁと感心してしまいます。

 

心=意識=自分と考えると、コロコロ変わる心を相手にしてさらに深く迷い込んでしまう、と思うのです。君も学生運動共産主義思想が渦巻く中で、自分は何をもとに考えるのか迷っていますね。心や意識は自分自身ではないと考えると、心についてもより客観的に見ることができると思うのです。正直言ってこういう風に考えるのはつい最近からのことです。この観点からもう少し心の旅をして、また君に話すことがあったらお話ししたいと思っています。