僕は何か

僕の母は片足がありません。血栓が詰まり、脚の付け根から切断いたしました。僕も、そして本人も、もうその脚があったことは忘れています。それはもう体の一部ではないのです。母ではないのです。

 

恐らく、両手両足がなくても、自分は「在る」と思うでしょう。なくなった両手両足はもう自分ではない。同じように、内臓の一部、例えば、胃とか、腸とか、切り取られても同じです。万一、心臓が壊れて人工心臓になったとしても、生きているなら、やはり、自分は在ります。極端なこと、頭部だけになったも、生きているなら、自分は在ります。更に、目や耳が無くてもそうです。

 

では、五感がなくなって意識だけがあったらどうでしょう。その時、その口からどのような言葉が出るでしょうか。「僕は静寂の中にいます。どなたか近くにいますか?」と尋ねるかも知れません。そして何らかの方法で、言葉が外から入ってきたら、会話はできます。

 

そしてもし、その口も、外からの言葉も無くなったら、その意識は、外と遮断されます。その時の意識は何を思うのでしょうか。天涯の孤独、闇の中の自分とはどんなものなのでしょう。でも、未だ、自分は在ります。僕はこの様な意識の状態になったら、逆に色々なものを感じられる様になるかも知れない、というふうに感じます。自然というか、宇宙というか、その意識が在る場所を感じるのです。どんな言葉になるのでしょうか。きっと、今の僕が使っている言葉では表せないものでしょう。静寂の中に

八百万の神を感じるのかも知れません。そうなると、恐らく、もう言葉は有効ではないのです。

 

だから、脳の中の「言語中枢」がなくなって、言葉が消滅した状態になっても同じことです。もう、言葉でははかりしれない。でも、そこに何かが居るのです。仮にこれを「魂」とよんでおきましょう。その魂はどこに居るのでしょう。魂は、残された肉体の何処なのでしょうか、又は肉体とは独立したものなのでしょうか。

 

僕は、肉体の何処も自分ではなかった様に、自分というものは、宇宙の果てからやってきて、たまたまこの肉体につながったものと考えるしかないと思います。と考えると、自分とは、脳の中にいるのでは無く、肉体のどの部分にも居る、切り取った手足にも居るということになります。ただそれらは言葉を発しないだけです。

 

僕とは何かを考える一手段として、この様な事を考えました。