17歳の君へ

50年前に君が書いていた日記を見ました。大学受験前の秋、学園は安保闘争で閉鎖していた頃、君も必死で時代に乗っていこうとしていたこと分かります。でも、君はそれに乗り切れなかった。マルクスとかレーニンとかの言葉が飛び交う中で、どうしてもそれが理解できなかった。そもそも、何で安保が良くないのか、政府は間違った方向に日本を進めようとしているのか否か、そして何故友人達があのようにアジれるのか、よく分からなかったのですね。

 

正直な疑問の心境を吐露していることわかります。そして、君は、無理にその流れには乗らなかった。可能な限りの勉学をして、考えて、あの日記を書いたのですね。その内容の深さに、僕は驚いています。実は、僕も今、同じことを感じ考えているのです。自分とはそもそも何か。ーと言う事は、僕は、50年以上同じことを考えていたと言う事になります。

 

でも、君の50年後の僕は、君ほどは激しくも必死でも悲壮でもない。そんな僕が、君が納得するか否か分からないけど、今の僕が考える「自分とはそもそも何か」を書いてみます。でも、疑問に思ったり、おかしいと感じたら、教えてください。

 

君は自分自身の中身を、声を、言葉を聞こうとしているのだけど、そもそもその「聞こう」としている「人」はだれですか?君自身ですか?僕は、その「聞こうとしている人」は、君自身ではないと思っているのです。何かを見たり聞いたりするときは、その”もの”や音を出す”もの”から離れて、外側にいます。だって、君は友人の中に入り込んで何かを感じることはできないのですから。僕は、自分自身についても同じだと思っています。僕自身のことを感じる時、感じている僕は、僕自身ではないのです。いや、僕自身ではないから、僕を感じることができるのです。

 

びっくりするかも知れないけれど、君のお母さん、即ち僕の母親は、左脚がありません。壊疽で一昨年切断しました。失う事を嫌がっていたけれど、よく話をして、手術をしました。そして今は、その切断した左脚のことを忘れています。左脚はお母さんにとって、もう自分の一部ではないのです。きっと、人間は、両手両脚を失っても、自分はまだ在ると思うでしょう。

 

では、頭の中の、言語中枢を失ったらどうでしょう。実は、しゃべれなくても、言葉が浮かばなくても、自分は在るのです。僕はそれを、僕の祖父、つまり君の大好きなお爺ちゃんから知りました。しゃべれなくても、言葉が浮かばなくても、目に涙が浮かぶのです。悲しいと感じる「流れ」がそこにはあるのです。

 

ちょっと飛躍があるけれど、手足が僕ではないと同じで、その「流れ」も僕ではないと思っています。その流れを感じるのが僕、その流れを見ているのが僕、なのです。ということは、頭も、脳も、僕ではないのです。僕は、それらの外にいるのです。

 

今日はこのくらいにします。続きは明日にしましょう。僕も再度このことについて考えますから、君も何かを思ったら教えてください。