信仰のある生活

昨日僕は、努力と決意の違いについて書きました。その中で、努力とは、人間が一人で戦う姿であるのに対して、決意とは、天または宇宙から力をいただいた姿であると言いました。この感覚は、言葉で伝える事が難しく、伝わりにくいことかもしれません。努力する事を蔑ろにするわけではなく、大切なことと思っていますが、決意という心持ちと比べると、その力は絶大であると感じています。

 

その後、感じる事があったので、これに関連して述べてみたいと思います。それは、信仰のある人とない人の違いです。それは、決意した状態とは、信仰を持った状態に似ているのではないかと思ったからなのです。僕は、敬虔なクリスチャンでも信心深い仏教徒でもありません。しかしながら僕は、中村天風の書に出合い、宇宙の力というものを感じる事がありました。

 

それは、理屈を積み重ねて到達した心境ではなく、ある時ふと感じたものなのです。その時僕は、自分が宇宙の大きな流れの中で生きていると感じたのです。僕の中に染み込んでいる言葉やイメージが、親からそしてまたその親から、はたまた周りの自然から引き継がれたものだと感じたのです。いやそんな穏やかな状況ではなく、その時の僕は切羽詰まっていました。僕は生活に窮し脅かされる状況になっていました。その時僕は、中村天風の「運命を拓く」を読みながら、面々と続く宇宙の流れに乗っているんだ、その力をもらって生きているんだと自分に言い聞かせました。そうしたら、とても安らかな安針を感じたのです。力が湧いてきました。勇気が出できたのです。

 

それは、努力から決意に変わる瞬間と似ていました。もしかして、こういう心境が、信仰心なんではないかと、今改めて思いました。この僕の生活を、信仰のある生活と呼ぶならば、そうです、僕は信仰をしています。僕は信仰をしている人間であると言ってもいいんだと思ったのです。

 

宗教が政治的に利用され、平安を脅かす事態もあります。しかし、その様な宗教は、もはや信仰ではないと思うのです。信仰の目的は、勢力を伸ばすことではなく、個人が力強く生きる事です。正直言って、今の僕の信心というものを広めようとは思っていません。他の力を信じて生きるならそれでいいと思います。ただ、不安と妬みにさい悩まされた生活をしている人が多くなれば、世の中は崩れていくでしょう。

 

そうです、勿論、一定の経済的・社会的基盤がある事が基本です。それは政治の問題でしょう。しかし、その上に立って、信仰心のある生活を築いていくことも大切なのだと思う様になりました。