努力と決意の違い

僕は、努力している自分と、決意した自分の違いを感じている。例えば、食べ過ぎについて振り返ってみよう。僕は割合と食欲のある方であり、どうしても食べ過ぎてしまうのである。そして食べ過ぎた後、後悔する。もうここら辺で止めようと思いつつ、もう一口摘んでしまう。そして胃がもたれてしまう。お酒についてもそうである。冷蔵庫にビールがあれば、つい飲んでしまう。アルコールが入れば、気力が衰え、やるべき事をやらずに布団に潜って寝てしまうという事態になる。

 

食欲も、アルコールも、それを目の前にした時は、どうしようも無い力に押されて、心の葛藤がはじまる。そして、気持ちがしっかりしているときは、その力に打ち勝ち、食べたり飲んだりするのを止めることもある。しかし、そういう努力は、大抵の場合、敗退するのである。50代になった頃、体力の衰えと、胃腸の調子に変化を感じ始めていた。特に、食べ過ぎは良くないのである。

 

でも、僕は現在、この食べ過ぎや不要なアルコールについては解決している。長い間の努力と葛藤はもうない。それは、「決意」をしたからである。僕は決意によって、間食はやめました。晩酌もやめました。もう、努力はしていません。そして胃が軽くなり、以前の様な、もたれ感やゲップもなくなりました。

 

一言で言うと、努力とは、選択の鍵を自分自身が持っている状態です。しかし、決意とは、その鍵を、自分が持っていない状態なのです。決意をすると、迷いはなくなります。言い方を変えると、何か大きな力が僕に加わるのです。ぼくは、この力を、天の力と感じています。決意するとは、天の力を自分自身に流し込むことではないでしょうか。

 

この事を知って僕は随分と楽になりました。決意するとは、信仰を持った人で言うところの、神との契約に似ていると思います。努力とは全く違うのです。とは言っても、努力を否定するつもりはありません。長い間の努力の後、決意はやってくるものと感じます。

 

さて、アメリカの不正選挙と戦うトランプの心も、この決意に相当すると思っています。トランプには恐れはなく、迷いもなく、まさに天の力で動いているのです。大統領就任で「憲法を守る」という誓いを立てました。これは、天に対するトランプの決意なのです。誰から何を言われようが、貶められようが、追い込まれようが、怯むことはないのです。そして、そういうトランプだからこそ、天は力を貸しているのです。