理屈とは

理屈とは、感情に左右されないで、他人にその意を伝えるために考え出されたものだと思う。そして、その理屈の根拠は、事実と論理である。事実から出発し、皆が認める一定の論理をもって推論し、結論を出すことです。しかし、ここに難しい問題がある。同じ事実でも、人によって受け止め方が違うのだ。それは理屈では割り切れられない。

 

例えば、コップに半分入った水を見て、「半分もある」と思うか、「半分しかない」と思うかによって、その後の論理の組み立てが大きく違ってくるからである。コップの水ならまだいい、例えば生活環境がこれでいいかとか、人生への満足度とかいったことになると、天と地の違いをもたらしてしまう。

 

一般的に言って、不満を持つ人の声は大きい。他の意見を聞き入れない態度になってしまう。それに対して、この程度で致し方ないと妥協する人や受け入れる態度をとる人は、強い主張をすることはない。

 

不満を持つ人は、理屈と権利を盾に、どんどん主張していく。これはとても強い意見となっていく。また、不満を持つと言う事でもなくても、同じように、理屈と権利を盾に主張していく人もいると思う。このタイプはいわゆる知識人とかインテリと言った人たちの多く見られる傾向と感じている。

 

しかし、理屈とか権利で主張するやり方には何か不自然さ強引さを感じてしまう。そして、共産主義とか社会主義の主張に、同じ傾向を感じるのである。理屈とか権利以前に、僕は、信仰というか自然への帰着というか崇拝というか、もっと大事な前提があるように思うのである。この大前提を忘れた理屈は、生命そのものと対峙し破壊しているもののように感じる。BMLやアンティファなどの暴動と言っていい騒動は、この具体的な表れであろう。民主党の首長が管理する町での秩序崩壊、生活破壊が起こっている。

 

僕は、今回のアメリカ選挙に関わる騒動は、この理屈に暴走した人たちと、それをおかしいと感じる人たちとの戦いでもあると思う。以前モンスタークレーマー、モンスターペアレンツモンスターペイシェントなど、理不尽極まりない要求で組織を悩ます困った人々が問題になった。今回の選挙でも、不正を示すビデオが公開されても、根拠はないと言い続ける。この「理屈」は何であろう。

 

科学万能という意識に裏打ちされた、理屈の世界にも、大前提があると言う事を再認識することを問われている気がする。また、その大前提に裏打ちされていない理屈は、いずれ崩壊すると言う事も、今回の不正選挙の騒動の中で明らかになったと思う。これを機に、正しい認識に裏打ちされた理屈や議論を展開できるようになることを望む。