二つの自己認識

自分自身を客観的に見る事が、人が意識を持った瞬間だと思っています。そして、その意識というのは、予め備わったものではなく、人類が社会を構成するために苦しみながら生み出したものであるという仮説に賛同しています。意識によって自分自身を客観視出来るようになり、大きな複雑な社会を構築できるようになったと考えます。こうして人類は強大な力を持ち、地球を支配していくようになったのです。

 

しかし、世の中が単純なら、個人の役割や行動をちょっと調整するだけでよかったのですが、世の中が複雑になり、いろいろな人間が入り乱れてくるようになると、その調整も簡単ではなくなってきます。そしていろいろなタイプの人間がいる事がわかり、比較したり、自分自身の欲望などを満足させようとなってくると、自分自身のコントロールさえままならなくなってくるのです。

 

動物の社会から人間の社会に進化する時に、意識は大事な役割を果たしましたが、その意識を見る目が深化してくると、意識の制御自体が難しくなってきます。そこで、道徳や正義や法律などを考え、深化する意識を制御し、安定した社会を目指す工夫がなされるのです。しかしそれは簡単ではありません。個人差がありますが、個人の欲求と社会の安定は必ずしも一致しないのです。

 

僕は今こそ、意識の使い方を、進化させるべき時がきたと思います。今の世界の混乱は、意識の使い方が、まだ動物に近いのではないかと思います。人は、食欲や性欲や他者との比較だけで意識を使っていては駄目なのです。これこそ、未だ動物としての意識の使い方です。即ち、客観的に自分を見て行動を判断するだけではなく、客観的に自分の中の魂を見極める必要があるのではないかと思うのです。僕はこれを、動物としての自己認識と、魂を見極めようとする自己認識の二つに区分します。

 

後者は自己の探究・内観という大きな努力を必要とします。でも、この努力がないと、現在の混乱した社会を安定した社会に軌道修正していく事はできないのではないでしょうか。人類は新たなる進化の局面に直面していると思います。

 

 

 

この事をもっと考えていくと、自己認識には二つあると気づきます。それは、外から見た自己認識と内から見た自己認識です。前者は他人が自分をどう見ているかという観点で、後者は自分自身が自分をどう見ているかという観点です。