僕とは何か

僕とは何か。何が僕なのか。前回、「僕の考え」とは、僕の肌身の感覚を通して共感できるものを集めたもの、という理解をしていることを言いました。では、その「考え」とはどこから来たものなのでしょうか。そして、その考えを受け容れた「僕」とは何なのでしょうか。さらに言うなら、「肌身の感覚」とは、誰が何によって受け容れたものなのでしょうか。

 

これを突き詰めると、感じたり考えたりする「僕」はどこから来たのか、という問いになります。実はこの「僕とは何か」という問いに対する答えを、僕は最近持ちました。僕の答えは、自然と一体であった人間が、自分を客観的に見る機能を持った瞬間に彷彿として現れたもの、と言う事です。

 

「僕」というものは、もともと存在しなかった、自分自身を自分自身が「見る」ことで発生した、言うなれば幻想みたいなものです。たとえば、目の前にあるリンゴが、「僕」を持つとしたら、それは物体としてのリンゴから遊離した、この物理世界には存在しない想像の産物でしかありません。自分が自分を見る、ということはこのように想像の世界を作ることにほかなりません。物質存在から乖離した空想の世界がそこにあり、それが「僕」なのです。

 

デカルトが、「この世で確かなもの」を求め、すべてを疑って排除し、最後に排除できなかったものが、「疑っているこの自分」と言う事を発見したのです。疑っている自分を排除したら、その瞬間、自分は無くなるのです。まさに、乖離していた自分という意識が、物体としての自分に戻って消えてしまうのです。デカルトが、「我思うゆえに我あり」といったのは、まさしくこの瞬間のことだと思います。デカルトは、「我」からスタートし、それが消える瞬間をもって、「我」の確認をしました。同じことですが、僕は、物体が物体から離れて自分自身を見た瞬間をもって、「僕」の誕生の確認をしています。

 

僕は、自分という実態から乖離した「僕」が、それからどのように変化していったのか、「僕のもの」という感覚とか、「僕の考え」とかいう思いを、どのように構築していったのか、再度思索したいと思います。