意識とは

意識はつかみどころのないものである。意識とは何かと問われても、これですと差し出すようなものではない。例えば、歩いている時意識はあるのだろうか。ひたすら歩いている時、ふと何かにつまずきそうになって我にかえって、意識を足元に向ける。もしかして、何かを考えながら歩いていたかも知れないが、少なくとも"歩いている"ことには意識は向いていない。

 

他のどんな動作であっても、その動作に意識を向けている事はほとんどないと思う。「意識」に気がつくのは、その動作に何らかの支障ができた時である。という事は、意識とは断片的で刹那的で点在しているものという事である。

 

僕は意識とは、何らかの対象に心を向けた時に感じるものと考えている。常時気がついているものではないのである。これは、体の具合を悪くして、健康に気がつくのと同じである。しからば、意識はどんな時に気がつくものなのであろうか。それは、"おかしい"と感じた時である。"どうしてだろう"と感じた時である。

 

意識とは、目や口のように実体として存在するものではなく、健康とか愛とかいうものに類する。そこに心が向いた時、気がつくものなのである。

 

他の動物にも意識の基になるような働きはあるかも知れない。しかし人間のような複雑な働きを持つ意識はない。であるなら、人間は動物から人になる時、どのようなきっかけで意識に気がつくようになったのであろうか。

 

それは、脳が進化し、社会が複雑になり、「このままではダメだ」と気がついた時ではないか。動物時代の様に"個々に勝手に"やっていては、社会秩序が保てなくなる事に危機感を覚えた時ではないか。その時、人は、"おかしい"自分の行動に"気が付いた"のではないか。

 

これは、ジュリアン•ジェーンズの2分心の仮定を基に、僕が想像している事である。"おかしい"と感じた時、その"おかしな"指令を出している「右脳」の働きに気がつくのである。そして右脳を見るということは、自分自身を客観的に見る、という事になる。これが、意識に気がつくのは瞬間なのである。

 

意識とは、自分自身を客観的に見る機能のことなのである。これが現在の僕の結論である。