洞窟の比喩の別解釈

プラトンの洞窟の比喩は有名です。囚人たちは手足を縛られ、目の前のスクリーンだけを見せられています。そのスクリーンには、後ろで操られる快楽に操られた人形が火の光によって映り出されています。その映像に慣らされた囚人たちは、外に太陽があり真実の世界があることを伝えられても、外に出ようとしないのです。つまり囚人たちを、外の真実の世界に連れ出そうとする人が、真のリーダーであるというわけです。

 

僕はここに別の解釈をしたいと思います。ここは洞窟の映画館です。火にあぶり出された画像がスクリーンに映っています。そして実は、囚人たちもそのスクリーンの中に”いる”のです。しかし、囚人たちは自分もスクリーン入り込んでいることに気が付きません。その映画を”現実の自分”として楽しみます。そして、その楽しみが、スクリーンの中だけであることに気づかない囚人たちは、縛られたまま、それを見続けてしまうのです。

 

洞窟の映画館で作られた映像は、例えば国家や種族や宗教や、その意図によっていろいろに作られています。公平な真実の世界は洞窟の映画館の外にあるのです。問題点は、スクリーンの中を現実と勘違いして、そこから抜け出せないことです。

 

プラトンの洞窟の比喩では、囚人の世界とスクリーンの世界は、別のものです。しかし、スクリーンが世界を客観的に映し出したものであるとするなら、客観的にスクリーンを見ている囚人も、そのスクリーンの世界の中にいるべきものなのです。囚人そのものとスクリーンを見ている囚人とは、違うものであるという観点が必要と思っています。問題の解決としては、スクリーンを見ている囚人が実はスクリーンの中にいることを気づかせることなのです。それに気づいたら、今一度囚人そのものに戻り、共に外に出て、外の世界や別の洞窟映画館を見るべきなのです。