僕の考えとは

僕の考えとは何でしょうか。何が僕の考えたことなのでしょうか。

この問いかけは、そもそも、僕とは何なのか、と言う事にもなります。

 

僕は、学生時代からずっと、この問いかけを自分にしていました。学生運動が盛んな1970年、マルクス主義を唱え、アメリカとの同盟反対を叫ぶ友人たちと一緒に学生運動はできませんでした。それは、僕自身の考えがなかったからです。マルクスも日米同盟も、僕にとっては学習している段階で、僕の考えではなかったのです。

 

このころの僕にとって、これらのことは、僕の生活を大きく変えることではなく、身に迫った危険もなかったのです。どうしても、「自分の事」として考えられませんでした。「他人事」として、どういうことなのかを注視している段階だったのです。そして、いつかは、「自分の考え」を持ち、自分の意見を言えるようになるんだと思っていたのです。そういう点では、現在の香港の若者のような、身に迫る狂気に危険を感じるような状況とは違っていたのです。

 

幸いにして、身に迫る危険はなく、60年以上の年月を重ねました。果たして僕は、あの頃描いていた「僕の考え」を持ったのでしょうか。政治や社会に対して「ものを言える」大人になったのでしょか。答えは否です。あの頃の自分と今の自分に変わりはありません。未だに、よくわからず、学習している段階です。

 

ただひとつ、学生時代のあの頃と変わった点は、その後の人生の経験が加わった、という点です。未だに、政治も社会も世界も「分かった」とは言えません。情報はあふれ、意見は百花繚乱し、何を真実として考えたらいいのか分かりません。しかし、人生で味わった事実は僕の考えの中の出発点になっているのです。肌身で感じたことが、僕自身の考えを支えてくれているのです。

 

政治の世界も、どうしてそのような動きになるのか、派閥を構成しなくては動けないのはなぜなのか、残念ながらそれは、僕自身の肌身ではわかりません。分からなくさせていると言ってもいいのかもしれません。しかし、それを「肌身」で感じている人が、情報を発信しています。

 

そして僕は、僕自身の肌身の感覚を通して、インターネット上にあふれる情報の中で、共感するものを集めているのです。その集められた情報によって、「僕の考え」を作っていると言えます。日々、真実は何か、何が真実か、僕自身の肌感覚を通して取捨選択し、僕自身の意見や考えや、さらには僕自身を作っていると言っていいと思います。