哲学の責任

中共の人権侵害問題に関していつも思う事ですが、なぜこうも酷いことが起きているにもかかわらず、世界はそれを止められないのだろうかと言う事です。もし、自分の身にそのことが降りかかってきたとしたら、絶望の中で、逃げるか戦うかの選択を迫られるのです。逃げられないと知った時、最後まで戦うしかないのです。

 

そして、その時、取り締まる側の”当局”も、真にそれが正しいと思ってやっていることではなく、”そうしないと、明日は我が身であるから、従う”と言う事ではないでしょうか。

 

こうも堕落し、地獄化し、明るい光のない、人類社会とはどうしてできてしまったのでしょう。

 

経済のため、現在の生活のため、見て見ぬふりをしないといけないのが現状なのでしょうか。では、どうしてそのような、がんじがらめの、抜け道の見当たらない、社会を作り出してしまったのでしょう。

 

僕は、世界の歴史は、それに先行する時代の変化によって左右されてきたと思っています。現在の世界は、19世紀末から20世紀にかけての哲学の異様な肥大化が原因と思うのです。哲学が、こうも一般庶民からかけ離れた学問となり、マルクス共産主義などの社会を崩壊させる思考の源泉となってしまったことが、現在の社会混乱の真の原因と思っています。

 

中共は、いまもマルクス主義毛沢東主義を手本としています。神を否定し、あの世を無視し、現世の利益だけを優先するのは、もう生命とはいえないものであります。何千億も、いや兆に達するようなお金を握り、国民を監視し束縛し自らの命のために何をしてもいいと思っている中共の幹部たちは、本当に幸せなのでしょうか。何のために生まれてきたと思っているのでしょうか。いや、そんな質問すら無意味かもしれません。

 

ではそのような思考を提供した哲学とは何だったのでしょう。ギリシャ哲学は、神様が言う事が本当なのかと、疑問に思ったことで始まりました。思考することにより、神と対峙しようとしたのです。でも、現在は、「そもそも哲学とは何だったのか」という疑問に立ち向かわなくてはならないのではないかと思います。

 

哲学を”勉強”したことがない僕が言うのははばかれますが、結果からみれば、「哲学はおかしい」と言わざるを得ません。哲学は現実の生活の疑問から乖離してしまった。人生や若者の苦悩にこたえるものではなくなってしまった。

 

「正⇒反⇒合」として説明されるヘーゲルの「弁証法」とは何なのでしょう。そうまで難しく考えないと、現実が見えないのでしょうか。頭の中だけでこねくり回した、理屈だけの世界から、現実の世界の矛盾や苦悩が解決できるのでしょうか。難しく言いまわした哲学を「勉強」し、わかったふりをし(少なくとも僕笑)それを勲章のようにひけらかいして何になるのでしょう。

 

プラトンが言う、現実にはないイデアの世界が「在る」ということ自体がおかしかったのかもしれません。イデアの世界は「無い」のです。あるとしたら、思考の中に抽象「概念」として構築されたものです。そんな世界(イデア)は「在り」ません。

 

僕たち人間は、「無いものを在る」と考えるようになって、おかしくなってしまったのではないかと思います。だから、「共産主義」という世界も「在る」と思うようになったのではないでしょうか。大脳皮質は神を思いつくことはできません。代わりに「共産主義」という神を作り出してしまった。神は大脳皮質ではなく、太古の脳に任せて感じるべきものです。そう考えると、共産主義中国共産党は滅びる運命しかないものであるともいえます。

 

本当に人生の役に立つ学問であるべき「哲学」を開始しましょう。もう一回、3千年前に戻って、人間とは社会とはなにか、過去や現在や未来について考えなおしましょう。