避けるべきは、豹変する人・狡猾な人

インターネットにはいろいろな情報が飛び交う。僕は、真実を知りたいと思い、何人かの発信者をマークして情報を追いかけている。その数は20〜30ぐらいである。情報源の信憑性はもちろん大事だが、それに対する見解も大事である。同じ情報源であっても、見方によって180度評価も違ってくる。だから、インターネットを通して得る情報は、情報源の信憑性とそれに対する評価を一体として見ることになる。

 

さて、人間は、目の前の事実に対し、その時の自分の状況や思いで評価しているのである。つまり、コップ半分の水を見ても、「半分しかない」と思うか、「半分もある」と思うかで目の前の事実は180度違ってくる。運動をして喉が渇いてコップ半分の水を見た時の思いは、「半分しかない」という不満であろう。もちろん状況によっては、この場合「半分もある、ありがたい」ともなり得る。しかし、水のない砂漠を歩いていて、最後にコップ半分の水を見た時は、「半分もある」という感謝であろう。ただ、これらの場合の事実はあくまでも「コップ半分の水」なのである。

 

しかし、自分の人生や運命を基に事実を評価するとなると、喉が渇いたという単純な状況ではなく、その人の考え方や経験や環境によって違い、複雑である。だから、その心の態度によって、事実の伝え方も違ってくるし、不都合な事実は選択しないという選別さえ発生するのである。こうなると、「事実」を伝えるのではなく、「思い」を伝えているのである。

 

さて、再びインターネット情報のことに戻ろう。その情報が事実なのかを見極めなくてはならない。発信者の都合で、「捏造」されているかもしれない。捏造でなくても「選別」されている可能性もある。しかし残念ながら、僕たち読者はその判断はできない。結局のところ、僕たちは、他の発信との比較で判断しながら実態を反映しているか判断するのであるが、その発信者を「信頼」するしかないのである。更に言えるのは、その発信者自身も、信頼する情報提供者から情報を得ているということなのである。

 

僕は出来る限り心を研ぎながら、情報発信者を信頼できるか見ている。僕の信頼の基準は、その発信者の見方が一貫しているかである。逆にいうと、急に意見を変える「豹変」と、他の人の褌に乗り利用する「狡猾」を感じた時は、信頼できない人として排除している。つまり、愚直で地道で奇をてらわず、変化するにしても一歩一歩の歩みのわかる、そんな人を信頼している。

 

 

それによって、心の態度、生き方がまったく逆になってしまうのである。つまり、人間は、目の前の事実を見る前に、心の態度・基本とする考え方を既に持っていて、それによって事実を判断していると言えるのではないか。

 

だから、結局のところ、僕達は、自分の見方で信頼できる「人」を見つけ出すしかない。