個人の意識

僕達日本人が「僕は日本人です」という時、その意識は、「日本に生まれた」なのか「日本で生まれた」なのか、どちらでしょう。普通の日本人の意識は「日本に」生まれた、ではないでしょうか。では「に」と「で」の違いは何でしょう。例えば、「駅に行く」とは言いますが、「駅で行く」とは言いません。また、「箸で食べる」と言いますが、「箸にたべる」とは言いません。つまり、「に」を使う時は、その行為の主たる意識は相手側にあり、「で」を使う時は、その行為の主たる意識は自分自身にあります。駅に行く時は、「駅」に意識があり、箸で食べる時は「食べている自分自身」に意識があります。

 

日本に生まれたという時は、「日本」が主で、外国で生まれたという時は、「生まれた自分」が主です。日本人の意識は、日本という全体があり、そこに自分が生まれているという感覚です。だから「僕は日本人ですが、アメリカで生まれた」という時は、アメリカで生まれた自分自身に意識があり、「アメリカに生まれた」ではないのです。

 

結果としては大した違いではありませんが、この時の意識には深い違いがあると思います。日本人の氏名の表記は、家族名が先で、個人名は後です。□□家の〇〇ですという時、まず全体の□□家があるのです。これは、西欧のFirst NameとFamily Nameの感覚とは真逆です。そしてそれが今の世界の標準なのです。住所表記にしても同じです。西欧では、まず自分の場所が先にあります。そして、その位置は全体の△△にある、と表記するのです。

 

僕は今の世界を見ると、西欧の個人主義のどうにもならない悲劇である様に感じます。個人主義とは、個人の中に「全て」を見ようとした、あるいは探した考え方です。しかし、個人の中には既に全体があり、個人を突き詰めるということは、全体の根源を知ることになってしまう。だから、個人主義とは自己矛盾しているとも言えるのです。個人主義を出発点とした全体主義、例えば、ナチや共産主義は明らかに失敗でした。でも、日本という、ある意味での全体主義は、2千年以上も続いているのです。現代の社会の行き詰まりを打破するために、今一度、日本の精神を考えるべきではないでしょうか。