日本人の心(武士道3)

僕は日本人とはどんな人のことを言うのかと考える時、祖父を思い出す。祖父は明治時代の人だ。もう今の人はほとんどイメージできないと思うけど、僕には、何か、ピーンと張ったもの、一種の怖さみたいなものが祖父にはあった。明治時代の人の写真や肖像画にあるような、隙を見せない力の様なものだ。それに対して、現代日本人は、よく言えば優しいということだが、生温さに浸かった倦怠感だ。

 

とは言っても、祖父は優しく僕を教育してくれた。そのわずかに残された記憶の中に、日本人を感じるのだ。よく覚えているには、字を踏んではいけないということだ。新聞や本はもちろん、字を書いた紙は、踏んづけてはいけないのだ。何故なら、字には魂があるからなのだ。

 

それから、物を投げるなと言われた。今では、ごみ箱にポイッと物を捨てるのは普通のことだが、それはダメなのだ。捨てるにしても、手で持って、ごみ箱にすてる。ましてや鉛筆やハサミやいろいろな道具は投げたら怒られる。それは、物を大切にするという心を忘れてはいけないということだったのだ。また布団を踏んづけると注意された。寝る時に使う物を踏んづけるということは、寝ている人を踏んづけることを意味するからだ。

 

一事が万事、今の人が聞くと、なんと窮屈な古臭いことでしょう。しかし、それを言われた時、ああそうかと思ってそれが普通だった。だから、最初ごみ箱に物を投げ捨てた時は、何か悪いことをしているような変な気持ちになったものである。でもその方が楽だと気付き、もはや、ゴミを投げ捨てることになんら抵抗がなくなっている。

 

でも、祖父のこの感覚こそ、日本人の心であったと僕は思う。それは、物や字には、何か神に通じるものがあり、大切にしなくてはいけないという感覚だ。何か、神聖なものを常に感じて生きているのだ。これは、現代の日本人が忘れてしまっていることかもしれない。しかし、万物に神聖なものが宿っていると感じる心こそ、日本人である証なのではないか。

 

大量生産・大量消費、使い捨て、こういう文化が、日本の心を忘れ去らせたと思う。現代は現代の生活の仕方がある。その中でモノの扱いが変わっていくにしても、元々あった神聖な感覚は忘れ去ってはいけない日本文化なのではないでしょうか。