利権政治の限界と革命

今回の中国武漢で発生した新型コロナウィルスは、想定以上の広がりを見せ地球規模の大問題になってしまった。今後の対応については各国の決断と対応に願いを託すしかない。

 

しかし、今回の世界の動きを見ても、現代の政治の体質的限界を感じざるを得ない。

 

この問題の原点は、武漢で発生した病気の実態が隠蔽されていたと言う事である。そしてその隠蔽体質の根底は中国共産党の体質にあるのだ。つまり自分の身を守るために、真実を隠すと言う事である。1月22日に、習近平はこの問題の隠蔽に激怒し、武漢封鎖と言う決断をして全力の対応をしている。しかし、その習近平自身も、身を守るために、ウィグルやチベットの真実を隠していることは誰の目にも明らかなのである。

 

ただこの現象は中国だけではない。WHOの今回の対応を見ても、地球規模の健康を守ると言う役割を果たしているとは思えない。中国の様子を伺い、経済の影響に怯えて、非常事態の宣言が出来ないのだ。WHOが地球規模の健康非常事態を宣言せずに、誰が宣言するのであろう。

 

日本を見ても、武漢の日本人救出の決定がなんと遅かったことか。中国への遠慮で同胞の苦境を後回しにしたのだ。

 

生命としての一個人の立場からすれば、政治家はどうしてもっと正直な対応を取れないのかと思ってしまう。どうしてもっと被害者に寄り添った対応や言動が、適時発せられないのであろうか。

 

僕はここに現代の政治の限界を感じてしまうのである。今の政治の多数決原理というのは、合理的手法のひとつとは思うが、それだけを根本にしてしまうと、どうしても利権が発生してしまうのである。そして、次第にその多数が所属する利権にシフトしていき、弱者は切り捨てられるしかない。その切り捨てられる対象が、明日の我が身かもしれないのに、そういう政治が進行するのである。そして政治家はその利権にどっぷりつかり、そういう政治家を再生産する。

 

僕は、政治家が「儲かる」職業ではいけないと思う。いっそ無給にすべきとさえ思う。そうすると経済的に余裕がある人しか政治はできなくなるが、土建や製薬や医療などの利権に縛られた政治はなくなる。そのような極端な変革は出来ないとしても、古事記に書かれた、仁徳天皇釜戸の煙をみて民を思う政治を見習うべきである。今の政治原理にあっても、利権を凌駕した政治家が出現する事を心から望む。これは革命なのだ。