感激の琴線

感激する心はどこからくるのだろう。それは突然やってくる。それは自分の意思とは関係ない。そして大きな力、抵抗できない力がある。

 

ぼくは、YouTubeを聴いていて良かったものは保管をしている。その中でも特に良かったものは特別のホルダーに入れている。ためになったもの、感心したもの、驚いたものなど。でもその中で理性を超えた感激するものがあり、それは人の声・歌であることに気が付いた。次の2つである。

 

一つは、腕のない少女が足の指で鍵盤を弾き、そして歌うものである。その晴れやかさと輝かしさと貴さに、思わず涙してしまう。もう一つは、シューベルトのアベマリアを歌うその声である。その清らかさと透明感と高貴さに引き込まれ、涙が出てしまった。

 

でも不思議なことに、感涙してしまう時もあるが、そうでない時もあるのだ。自分の心と歌声が、ある瞬間合体し共鳴するのだ。これは不思議なあ。どういう事なんだろう。理屈を超えた何かがそこにある。

 

人間は理性の動物である。感情に流されず、理性をもって秩序正しく社会生活を営んでいる。理性の方が大人で、感情は手に負えない子供のように扱われる。でも、理性は高々大脳皮質で行われる、生物としてはごく最近の機能なのである。一方感情は、奥深く太古の動機によって動かされる機能と思う。

 

歌声など外部の刺激によって、生命としての太古の波長に心が同期した時、感激すると考えていいのではないか。だとすると、その太古の波長・波動とは何なのだろう。

 

僕はそれを、生命の本来の姿であると思うのだ。生命とは、前向きに喜びの気持ちを持って、太古の源を今に再現しようとする力、ではないだろうか。歌声によって、眠っていた太古の波動が呼び起こされ、そのエネルギーが自分の心に流れ込んでくる、という風に考えると、上記2つの歌声に感涙した僕の感激を理解できるのである。そしてこの太古の波動とは、もしかして神様と呼ばれるものかもしれない。

 

腕のない少女の歌声

https://youtu.be/uwTpbRPT4HU

アベマリア

https://youtu.be/3d4xXvF2ukY