作るということ

LEGOは人気のある遊びであり、教材でもある。僕はこのLEGOを見る時、昔遊んだマシントイという遊び道具を思い出す。LEGOは言うまでもなく、ブロックを結合させて色々なものを作る遊びである。家や自動車や船や飛行機など色々なものを作ることができる。そのカラフルなこと、最新の部品をそろえれば、作れないものはないと思うくらいである。

 

これに対し、マシントイという遊びは、今から60年前、一種の教材として売られていたものである。木材の板、棒、円盤で構成されていた。板や棒は大小何種類かあって、一定間隔に穴があけてある。ボルトとナットで止める仕掛けになっている。円盤は円周に溝が彫られているベルトで回すことができるようになっている。これも確か大小あったと思う。僕はこれで自動車とかロボットとか起重機とかを作っていた。円盤と棒と板で動くものをたくさん作った。また、ボルトとかナットの扱い方も学んだと思う。

 

僕は子供が幼稚園に通う頃にLEGOを買ってやったが、僕自身も色々と作ることを楽しんだ。しかし、ほどなく、僕はこれに飽きてしまった。理由は色々なものを作ろうとするとき、そこに必要な部品を購入しなくてはならないからだ。例えば棒をくるくる回るようにして作りたい場合、そういう部品がなくてはならない。マシントイなら、ボルトとナットを使ってできるのだ。間に物を挟んだりすれば、微妙に角度も付けられる。つまり、工夫をしてイメージを作り出すことができるのだ。

 

最近になって、LEGOとマシントイの違いはなんであったのか、改めて考えるようになった。それは、物を作るという概念の違いであるとわかった。LEGOは部品を組み合わせて物を作る、マシントイは部材を加工して物を作る、ということではないか。もちろん、マシントイは部材となる木片を削ったり切ったりはあまりしないが、そういうこともできるし、ナットやビスも使い方によっては立派な部材となる。

 

作るということは、部材も含めて、加工し工夫するところに面白みがある。だから、LEGOしか知らない子供たちは、あの、マシントイの工夫の深さは知ることがないと思う。これは、たいしたことではないかもしれないが、幼児の心の形成には、少なからず影響をすると感じる。

 

大げさに言うと、組織や会社、はたまた、家庭を「作る」時にも心の奥底で判断の基準を形成しているかもしれない。つまり、人を部品とみるか、加工すべき部材とみるかである。部品は替えられる、部材は工夫して使う。人は置き換えられるものではなく、そこに存在し続けるものでありたい。

 

マシントイのファンからすれば、どうしてもその肩を持ってしまうが、過去の記憶として記しておきます。