僕たちは無神経になっていないか

通勤で通う横浜駅の通路に老女の浮浪者がいる。衣類が入っているのか、幾つかの布袋を重ね通路の脇の腰掛となる部分に横になっている。その前を会社に向かう男女の列が通り過ぎていく。その光景はもはや、風景の一つであり、何も感じる間もなく、ひたすら歩いていく。

 

さて、今日は泊まり勤務からの帰宅時、同じその通路を通ると、もう昼頃なのに浮浪者がいる。見ると、例の老女がうずくまっていた。人通りもそれほど多くなく、その姿が妙に印象的であった。ああ、朝からこうやっていたんだと、朝に見かける老女を思い出す。時間を忘れてただここにいるだけ。人としての感覚も感情も尊厳もない。

 

もしここに、一般成人や学生や子供が横になっていたら、間違えなく声を掛けるであろう。どうしてそうしているのか尋ねるであろう。しかし、浮浪者というレッテルを張ったとたんに、僕たちの思考は停止する。何も考えずに通り過ぎようとする。これはどうしてなんだろう。考えてもしょうがないという無意識の反応といってもいい。

 

だが、これは、浮浪者のことに限ったことではないと気づく。生活でも、政治でも、仕事でも、考えることをやめている、思考停止していることがあるのだ。どうしようもない、と反応して、無表情に通り過ぎていっているのだ。僕たちは、立ち止まって考える必要がある。

 

この老女はどのような人生を送り、どうしてこのような状態に陥っているのだろうか。そういうところから、逃げずに考え始めなくてはならない。