私ではなく僕

僕は自分のことを「僕」という。「私」とはいわない。理由はただひとつ、小さい頃から使ってきたから。「おれ」では何か乱暴な感じ、「自分」では固くなりすぎる。また「私」は女の子が使い、「僕」は男の子が使っていたので、なにか僕が無理やり替えられたような感覚があったし、今もある。

 

そもそも、「私」という字は、禾(のぎへん)すなわち稲を、(ム)刈り取って、これは自分の分だという意味だ。個人主義で排他的な意味を持っている。だから、私有とか私企業とかいう言葉ができる。

 

実は戦前は「和多志」と書いていた。これは、多くの志を和したもの、ということである。志とは、心が指し示すものという、大きく深い意味を持つ。その志を集めたものが和多志だというのである。ということは、自分のものだと主張する「私」とは正反対のものである。戦後GHQが「和多志」を恐れ「私」に置き換えさせたのもうなずける。

 

この事を知ったのは、だいぶ後であったが、知るほどにますます「私」は使いたくなくなった。こうやって、心の深いところで、精神を踏みつけられていることを僕たちは知らなくてはならない。

 

その別の例として「気」と「氣」の違いも知っておくべきと思う。 氣、気とは自然界の力・エネルギーを表している。元気(元の力)、空気(空の力)、病気(病の力)などである。しかし、それぞれの漢字に使われる「米」と「〆」には天地の違いがある。米は八方に広がる力を示し、〆は文字通り閉める力だ。八方に広がり浸透していく力と、閉じこもり他を拒絶した力はあまりに違いすぎる、こんな違いを許していいのであろうか、この違いを認識し、日本人の精神を再構築していく必要を感じる。

 

最後に西部邁が「妻と僕」の冒頭で言っていることを記す。

 

あえて言えば「私」というのは僕はあまり好きな言葉ではありません。「私」は「稲(禾)つまり食べ物をめぐって他者に肘鉄(ム)を食らわす」という姿の象形です。そんな振る舞いを妻に対してやった覚えが自分にはありません。自分はむしろ、彼女に対してではなく、彼女との「関係」にたいする「しもべ」(僕)であったということを示すべく「僕」とする、ということになりましょうか。