社会は色んな人の集まり

世の中には色んな人がいる。決して、素晴らしい人尊敬する人だけじゃない。変な人もいる、犯罪を犯してしまう人だっている。いやむしろ、普通と思われる人の方が少ないのではないか。みんなそれぞれに癖がある。僕だってそう思われても仕方ない。

 

でも、もし、みんな素晴らしい人だったらどうであろうか。理想的な社会になるのであろうか。決してそうはならない。息苦しい耐えられない世の中になってしまう、と思う。社会にはいろんな人がいる事が前提で、あるべき社会の姿を考えてみる。

 

社会、つまり人の集まりといいうものが、将来においても存続していけることが正しいとした場合、それはどのような姿をしているのだろうか。そのような観点の参考として、身体の健康というものを考えてみる。

 

健康を維持するために、黴菌のない、無菌状態が良いかというと、そうではない。いやむしろそのような状態に置かれると、身体の防御システムのバランスが崩れ、かえって健康に害を及ぼす、でも、黴菌が多すぎると、抵抗力の限界を超え病気になってしまう。

 

つまり、身体の防御システムが機能できるバランスを持った環境が大切なのである。身体は常に外部の敵、すなわち黴菌や異物と戦っていて、その戦いをしていないと戦う機能を失ってしまうのだ。だから、いつも適当な量の黴菌を必要としているのだ。

 

最近の健康報道などにより、不潔な状態を問題視しすぎている様子があると思う。でも清潔にしすぎると肉体的にも、さらには精神的にも健康のバランスを崩してしまう。不潔を異常に嫌うことだけでなく、身体の痛みや変化やはたまた出来物などに対して、あまりに神経質になることもよくない。人間は長い間そんなことは気にしないで生きてきたのであるから、神経質になることの方が問題であると思う。

 

この様に見てみると、社会についても同じようなことが言えるように思う。つまり、社会には色々な人がいていいのだ。いや、そうでなくてはならないのだ。たとえば、意地悪な人がいればいやではあるが、優しく寄り添う人のありがたさが分かる。短気な人を見れば、それによる害悪とか損失を知ることができる。自己中心的な人を見れば、こうではいけないと思う。攻撃があれば身を守ることも思い出す。

 

また、思想的に同じ人ばかりでもいけないのではないか。同じ思想の中にいると、その限界とか弱点とか、または良い点とか、そういったものが見えなくなる。カルト集団とか、偏った思想を押し付ける国家体制とかはこの例である。僕ら人類は歴史という知恵を持った。だから、現時点だけではなく、歴史上の社会や人物を学ぶことができる。人類には色々な人がいた。いろいろな考え方があった。現時点の身の回りだけでなく、歴史上の人々や社会を知ることも必要なことと思う。

 

つまり、社会には色々な人がいていいのだ。しかし、邪悪な人が多くなりすぎたら、これはだめである。また、偏った集団や一部の人間が社会を支配するのもだめだ。社会を存続させる限界というのがあって、これをキープすることが、社会を存続させることになる。色々な人がいていい、しかし、内部的に清浄する機能がちゃんとしている、ということが社会の条件であり、望ましい姿と思う。