人のまねをする国

本日の及川幸久さんのYouTube動画で「中国製造2025」というのがありました。英語で書くと、Made in China 2025となります。これは2025年までに中国がハイテクの中心になろうというスローガンであり、国家的戦略なのである。このために中国は諸外国のハイテクな企業をどんどん買収しているという。

 

つまり、言い方は悪いですが、ハイテクになるために、外のものを連れ込んでくる、奪うというやり方である。そして、これに気づいた先進諸国がそれを排除しているということらしい。それにしても、なるほど中国らしいやり方だと思う。

 

言ってみれば、これは「人のまねをする」やり方の一つなのである。ただここで、僕はこれは日本のやり方とは全く違うということにも気が付いた。日本人ならこういうやり方はしない、いや、できないと思う。奪い取ることができないというのではない、このようなやり方では安心できない、という精神なのである。少なくとも僕はそうだ。

 

かつて日本は、アメリカから「自動車」を学んだ。そして今や、そのアメリカをしのいで、自動車大国になっている。しかし、中国はどうであろうか。中国車が注目を浴びることは今もない。

 

この事は、ノーベル賞の受賞者についてもいえる。日本は湯川秀樹を始めとして、幾多の化学賞や生物学賞などを受賞しているが、中国にはない。即ちノーベル賞というものは、基礎研究が評価されるものであって、単なる組み合わせでは受賞できないものなのだ。同様のことが、自動車についてもいえるのではないか。

 

この事は漢字についてもいえる。日本は、漢字という「意味を持つ記号」というものが便利であることに気づいて、取り入れた。そして、その漢字から「音を表す記号」すなわち、ひらがなやカタカナを創り出した。単に奪ったのではない、さらに真似たのでもない。

 

こんなことに思いを巡らせていると、僕は次の言葉がふと浮かんだ。「日本は消化する国である」。僕は、今まで、日本はモノづくりの国であると認識していた。しかしそれはもっと深い意味では、消化する国であったのだ。

 

さて、Made in China 2025の話題に戻ろう。他人のものを自分のものにするやり方に、連れ込む(奪う)やりかたと、取り容れる(消化)やり方がある。そして奪うやり方では、永遠に奪い続けなくてはならないが、一旦消化してしまったら、もう奪う必要がないのだ。中国はそのことにそろそろ気付くべきではないだろうか。