パソコン教育

僕は幼児からパソコンを教育することに反対だ。もしやるとしたら、小学生高学年からでよい。理由は2つ、まずパソコンの世界は自然とは違うこと、そしてもう一つはそれをさせる親の動機が競争の原理だから。

 

幼児はこの世に生まれてきて、この世を肌で実感し、その仕組みや反応を身にしみこませることが第一にすべきことである。自分のしたいこと面白いことをやってみて、どうやって実現でき、なんで失敗したかを体感していく。その時の色々な体験が、その子供の運動能力や手先の器用さや考える力の源になっている、と僕は思っている。そしてこれらは、成長した後からでは身につかない。

 

僕は小さい頃、ささやかではあるが豊かな自然があった。木に登ったりぶる下がったり、アリの行列を追いかけたりセミを捕まえたり、小動物を追いかけたり蛇に驚いたり、池の中をのぞいたり流れる水に触れたり、これらは僕の自然に対する愛着と寛容を作ってくれた。そしてこれは小さい時の体験からしか作れないのだ。昆虫を怖がる今の少年少女をとても理解できないが、これはこの時期の過ごし方によると思う。

 

また僕は小さい頃、祖父の影響で色々なものを作るチャンスをもった。葉っぱで笛や鉄砲を作ったり、竹で水鉄砲や飛行機を作ったり、作ることの面白さや奥深さを知ったのはこれが原点である。そして、もう少し大きくなった時の親からプレゼントされた木工工作のセットは、考える力やナイフやハサミを使う手先の器用さを作ってくれた。

 

僕の人生は決して成功とはいえないかもしれない、しかし、60代後半のこの歳になっても、生活を工夫し、楽しさを創り出したいという強い気持ちは、この幼少期の体験からできたものと思う。ただテレビを見、孫と遊び、時間を過ごすしかない老年期ではなく、創造と目標と生きがいを感じる現在であり、このことにとても感謝している。

 

僕は大人になってパソコンと出会い、その仕事をしてきた。しかしそれは、このような僕の幼少期の体験の上に成り立っている。パソコンはハサミやナイフと同じに道具として使うものである、という実感をもっている。確かに、それを知り尽くすことは出来ないが、恐れるものでもないのだ。そのために必要なのは、分析する能力であり、ち密さであり、遊びを追求する心なのである。

 

長い前置きになってしまったが、幼少期からパソコン教育をすることに反対なのは、このような僕の体感から思うことなのである。パソコンは使いこなすほどに、自分の思いに沿った動きをしてくれる。そして、決して完全に自分の思い通りには動いてくれないことも許容できる。それこそ、幼少期の自然との体験から作られるものと思っている。