争そう

僕がもし争うとしたら、それは、相手が暴力という手段をもって攻めてきたときであろう。僕が生きようとし、実現しようとし、守ろうとすることを、もし理不尽な力をもって奪おうとするなら、それは争いとなる。

 

争いがだめだというなら、そのような時、戦わないでただの死を迎えられるであろうか。迎えていいのであろうか。信念というものがあり、それを正義と覚えるなら、それを理不尽に潰されてしまうことは、自らの死よりも重いことなのである。恐らく、日本人の精神構造はこの様な型があると思う。死よりも大切なもの。死により守るべきものがあると。

 

もし国家の場合、自らの信念をつぶされようとするとき、戦争になることもあるだろう。そのとき戦争は侵略とはちがうのではないか。侵略とは奪うことである。しかしここで言う戦争とは守ることなのである。日本が今回の戦争で過ちを犯したとしたら、この2つの意味の戦争を区分できなかったことではないか。世界の常識は、戦争とは奪うものなのである。しかし、戦争には守るという意味もあった。

 

実はこれは、アメリカの哲学者アインランドも言っている。彼女は言う、

In times of danger, a morally healthy culture rallies its values, its self-esteem and its crusading spirit to fight for its moral ideals with full, righteous confidence. But this is not what we see today.

危機に直面した時、健全なる意識文化はその価値・自己評価そして正しい確信をもってその精神を守る聖なる戦いの精神を再構築する。しかしこれは今日見ることは出来ない。